おわりに
これら現存する公文書の読み解きを通して指摘可能なのは、第一に、日本の対中国侵攻計画と実行が、一定の国家戦略や国家方針に基づき推進された訳では決してないことである。ここで俎上に挙げた史料群は、主に軍事行動の主体者としての陸海軍であるが、そこでの機関決定過程や実際の行動には、不規則な動きが顕著であり、不十分な事態予測のなかで、一旦決定された決定事項が先送りにされたり、内容変更を迫られ、当初の決定内容との乖離が目立つ事例が極めて多い。
それとの関連で指摘すべきは、第二に、日本の対中国侵攻計画の杜撰さと状況追随型の決定方針である。そこには日本の戦争指導体制の非一元性が顕著であることである。戦争指導の主体の不明確さと、特に陸海軍間及び政府と陸海軍との連携関係の不備である。その非一元制·非統一性が日本の戦争指導の一大特色である。
そうした背景には日本の戦争指導体制の機構上の問題と、そして何よりも対中国戦争の見通しの誤りが挙げられる。戦争指導体制が、陸軍、海軍、政府、など諸機関からのスタッフの、言わば寄せ集め的な形態を採っていたがゆえに、最後までセクショナリズムを克服できず、戦争指導方針のなかに、自らの役割期待を客観化することが不可能であった。それがまた、戦争指導体制の不安定化を結果していったのである。
第三に、その日本の対中国戦争指導体制の不安定化の重大な要因として、日本の戦争指導部が中国の抗戦能力を一貫して低く評価していたこととも指摘可能である。日本の軍部であれ政府であれ、日本の戦争指導部は押し並べて中国の戦闘能力や装備体系、さらには中国人民の抗戦能力や意欲の高さを最後まで充分に認識できずにおり、中国制圧論を極めて容易に思考していた。
それが対中国戦争指導方針の規定要因となり続けた。これに関連して筆者は、昭和天皇が、1941(昭和16)年1月に、当時天皇の侍従職にあった小倉庫次に漏らした言葉を引用しつつ、一冊の書物を刊行している。その天皇の言葉とは、「支那が案外に強く、事変の見通しを皆が誤り、特に専門の陸軍すら観測を誤まれり。それが今日、各方面に響いて来ている」[21]というものである。
すなわち、戦争指導の最高責任者である昭和天皇ですら、日本の対英米開戦の年に至って、つまり、満州事変から10年目にして中国の抗戦能力をようやく認めていたのである。逆に言うと、それまで日本の戦争指導部が如何に中国の抗戦能力を低く見積もっていたか、ということが知れるのである。中国の抗戦能力判断の誤りは、日本戦争指導部のある種の思い込みと楽観主義、さらには中国への偏見の所産であった。
それは戦争指導部の課題に留まらず、近代日本国家あるいは日本人の対中国認識の不十分性という問題に繋がっているように思われる。数多の史料群は、その近代日本国家総体の相手への充分な理解と尊敬という観念の希薄さを示した史料とも言える。
そうした意味で、本テーマへのより深い考察を進めることで、中日間に横たわる歴史問題から、相互平和関係の構築に連続する方途を見出していくことが強く求められていることを自覚せざるを得ない。
[1] 纐纈厚,日本国立山口大学教授。
[2] 大山梓編『山県有朋意見書』原書房、1966年、196~200頁。
[3] 第一次世界大戦を契機とする日本陸軍の総力戦準備状況については、纐纈『総力戦体制研究日本陸軍の国家総動員構想』(三一書房、1981年。復刻版は、社会評論社、2010年)を参照されたい。
[4] 同史料は、同上書に収載。
[5] 同史料は、同上書に収載。
[6] 黒野耐『帝国国防方針の研究 陸海軍国防思想の展開と特徴』(総和社、2000年) に所収。
[7] 国立国会図書館憲政資料室蔵『西原亀三関係文書』より。西原借款については、纐纈前掲書参照されたい。
[8] 角田順ほか編『太平洋戦争への道 別巻· 資料編』朝日新聞社、1963年、86~87頁。
[9] 出典:角田順ほか編『太平洋戦争への道別巻· 資料編』(朝日新聞社、1963年)99~101頁。原文はカタカナ。
[10] 外務省編『日本外交年表竝主要文書』下巻、原書房、1965年、217頁。
[11] 井原頼明編『増補 皇室事典』(1942年、冨山房、復刻版1982年) 467頁。
[12] 外務省編『日本外交年表竝主要文書』下、原書房、1965年、322~323頁。
[13] 『現代史史料8 日中戦争1』みすず書房、1964年、9頁。
[14] 同上、11頁。
[15] 同上、12頁。
[16] 同上、22頁。
[17] 同上、354頁。
[18] 同上、357頁。
[19] 外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻。
[20] 外務省編『日本外交年表竝主要文書』下、原書房、1965年、405~407頁。
[21] 纐纈厚『「日本は支那をみくびりたり」日中戦争とは何だったか』(同時代社、2009年、17頁)を参照されたい。なお、本書は近く、中国でも商務印書館から翻訳出版予定である。