日本侵华与中国抗战:有关史料及其研究
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近代日本の戦争指導体制と対中国侵攻計画

—対中国侵攻計画をめぐる日本の対応過程—

〔日〕纐纈厚

はじめに~課題と研究視角~

帝国日本は成立以降、生成·発展·展開の各過程において、常に急速な近代化·資本主義化を追及するため、欧米諸列強に劣る資本主義発展の重要な条件である資本力·技術力を補完するために、軍事力に依存しつつ、中国を中心とするアジアに資源と市場を求める政策を断行してきた。その政策を担保するために、過剰なまでの権力によって支えられた戦争指導体制を構築し、その体制を基盤として対中国侵攻計画を一貫して強行してきた。

その意味で近代日本は19世紀の欧米諸列強と形式を同じくするために、他国家や他民族の犠牲を強いながら、日本の資本主義化·帝国主義化への道を奔走した歴史を歩んできたと言える。

そこで本論では、第一に日本の戦争指導体制の内実について、政軍関係論の視角から要約分析をする。そこでの課題が、日本軍部が一体如何なる過程を経て、戦争指導体制の中核の位置を占めることになったのか、そして、その過程を他の政党や官僚など、他の諸勢力が、どのように対応してきたのかを探る。戦争指導体制の分析を通して、そこで案出された多様な対中国侵攻計画の内容についても触れる。

第二に、日本軍部が戦争指導体制の中核に座ることになった制度的理由として、取り上げざるを得ないのは、統帥権独立制である。これこそ、大日本帝国憲法(以下、明治憲法と略す)の第9条「天皇は陸海軍を統帥す」の内容から発出された制度であり、天皇の事実上の「私兵」として、帝国陸海軍が成立·展開し、天皇に直属した組織として帝国日本陸海軍が位置づけられたことか、日本軍部の独走が開始される。

無論、日本軍部が政治に介入し、政治を独占する状態が生まれたのは、この統帥権独立制のみに求める訳ではない。日本軍部を後押しすることで中国をはじめとするアジア地域での覇権を確保しようとして日本の財界や官僚組織、アジア支配を喧伝し続けた日本右翼の動き、また、そうした流れに便乗した日本民衆の存在など、確かに多くを指摘しなければならない。しかし、そうした背景を基盤にしつつ、実際的に日本軍部が既存の政府とは時には全く別の行動を選択し得たのも、天皇の権力に支えられた統帥権独立制度があったからである。その意味で同制度の解析は不可避であろう。

第三に、以上の二点を踏まえつつ、日本軍部が対中国侵攻計画を一貫して追い求めた構造的背景として、日本独特の政治と軍事の関係を政軍関係論(Civil-Military Relation)の視角から分析しておきたい。ここでは、日本には一貫した国家戦略が必ずしも確定されたものが不在であったことを強調している。換言すれば、日本の国家戦略の不在性の原因として、政治と軍事が並列関係に陥る昭和期初期以降においては軍事が優位性を確保していき、最終的に日本軍部が政治権力さえ掌握して、言わば国家を奪取する状態に陥ったからである。

国家戦略というものが存在するとすれば、それはあくまで政治主導による国家運営が貫徹され、そこに諸国家権力や民衆·世論の支持が安定的に存在することが条件となる。しかしながら、昭和初期以降においては、日本政治の現状は、軍部主導の政治状況が先行し、必ずしも自由闊達かつ創意工夫が十全に活かされるような健全な国家運営はなかったと言って良い。

問題はそのような状態のなかで、対中国侵攻計画が強行され、侵略戦争に突入してしまったことである。そこから教訓として引き出されるべきは、軍事の政治統制である。そのことが二度と侵略戦争を強行しない極めて重要な課題としてある。

第1章 日本の戦争指導体制~政軍関係論の視角から~

日本における「二重の政府」

1878年(明治11)年12月の参謀本部設置に伴い、軍政機関と軍令(=統帥)機関とを分離したことは、その後に軍事機構の政治機構からの独立を方向づけた点で重要な意味を持つ。両機関に分離に至った理由には、この年に起きた軍隊反乱である竹橋事件があげられる。すなわち、竹橋事件のリーダーであった内山定吉少尉(当時、東京鎮台予備砲兵第一大隊武器係)は自由民権運動の影響を受けていたとされ、これを教訓に山県有朋が桂太郎に命じて参謀本部を設置し、これを軍の要衝として一切政治の影響を遮断した組織としようとしたのである。

本来、軍政·軍令の両機関から構成される軍事機構は、合わせて政治機構内に属するべきものである。なぜならば民主国家であれば、国民の代表者たちによって構成される議会や政府などの政治機構に軍事機が服従することが絶対要件とされていたからである。しかし、日本では軍令機関が政治機構に属さない形を採り、政治の統制から逃れようとしたのである。言い換えれば、軍事は軍令機関を拠点として政治の統制を拒否する権限を得たのである。これを統帥権独立制と言う。

それは、軍令の軍政からの独立を意味する以上に、政治(=政府)からの独立をも意味した。此の場合、軍政は予算や編成を、軍令は作戦の立案·指導を主な任務とした。それで、軍政機関の長官こそ陸·海軍大臣として政府·内閣の一構成員となったものの、軍令機関が、政治の統制の及ばない位置を確保することになったのである。

参謀本部設置以後、直ちに政軍関係に矛盾や対立が生じたわけではない。政府が政軍両機構にまたがる役割や影響力を持つ人物で構成されていた時代には、特段の問題は生じなかったのである。例えば、伊藤博文に代表される政治指導者と山県有朋に代表される軍事指導者とが相互に連携を取り合っていたケースである。日清戦争の折、広島城内に設置された大本営には伊藤博文が列席し、軍事指導の領域にも踏み込んだ見解を表明する機会を確保していたのである。

ところが、政治指導者と軍事指導者との役割分担が明確となり、軍事機構が肥大化するに従い、軍部はこの統帥権独立制を盾にとって軍事への政治介入を阻止するに至った。特に、昭和初期には政党政治が後退し、軍人内閣が頻繁に登場するようになり、今度は逆に軍事の政治介入が繰り返されることになった。

満州事変(9·18事変)以降、勢いを得た軍部は、政党政治などの対抗上、自らの立場を強化するために統帥権独立制の拡大解釈を押し進め、政治の軍事への統制を拒否し、逆に政治への干渉を強行していくことになったのである。そこから政治と軍事との対立が構造化していく。

アメリカの政治学者サミュエル·ハンチントンは、政軍関係論の観点から、こうした明治憲法体制下の日本政府の実態を評して、「シヴィル」(政治)と「ミリタリー」(軍事)との二つの領域から構成された「二重政府」(Dual Government)であるとした[1]。つまり、日本には二つの“政府“が存在し、二つの”政府“部内で、深刻な対立と時には妥協が繰り返され、最後には戦争へと突き進んだ、と言うのである。

事実、日中全面戦争の開始期より戦争指導体制の強化が叫ばれるなか、国務(政治)と統帥(軍事)における特殊日本的な政軍関係の在り方が、国務と統帥との間の対立と抗争を起こしていく。なお、ここで言う国務とは政治に関る一切の事項を対象とし、軍政もこの中に入るものとする。

それで、近代国家の生成·発展過程においては、政治機構が高度化·複雑化していくに従い、政軍両機構が分化し、非常事態(=戦争)のみに政軍両機構が一体化した機構として機能するのは、むしろ常態であった。但し、その場合には軍事が政治に従属するのが前提であった。しかし、日本の場合には、政治と軍事とが並列·対等の関係に位置づけられたことから、それぞれの担当事項の範囲や権限などをめぐり政軍両機構が対立と抗争を繰り返し、統一的な戦争指導が行なわれにくくなった。

こうした事態が深刻となると、戦争指導の運用面で政略と戦略との不一致という状態を引き越すことになる。因みに政略とは、作戦に目的を与え、その範囲と限度とを指示し作戦の成果を活用することで国家目標を達成しようとする国家の政策のことである。また、戦略とは、政略によって目的と限界とを規定されつつ実行される作戦計画及び作戦実施過程のことを指す[2]

一連の戦争指導の局面において統帥権独立制を原因とする政戦両略不一致という事態は、明治から昭和初期にかけての戦争発動中に一元的かつ統一的な戦争指導を進める上で後述するように、様々な矛盾や課題を生み出した。そこで、日清·日露戦争から第一次世界大戦を挟んで昭和初期までの戦争指導を円滑に進めるため、政治と軍事との調整機関として戦時大本営、防務会議、臨時外交調査会、大本営政府連絡会議、連絡懇談会、最高戦争指導会議などが相次ぎ設置される。だが、軍部が統帥権独立制を盾として自己に有利な戦争指導体制づくりに奔走したため、この試みは実質的に何らの成果を得ることがなかった。

大本営という名の「政府への対抗拠点」

1937(昭和12)年7月7日の盧溝橋事件に端を発する日中全面戦争の開始に伴い、日本国内は戦時体制に入った。近衛文麿内閣は政軍関係の矛盾を解決し、戦争指導の対立を解消する狙いから政治機構の集権化·統合化を骨子とする制度改革に乗り出した。具体的には日中全面戦争の処理を迅速に行なう臨時内閣参議官制度の創設であった。その内閣参議官のなかに内閣参議を配置し、外交軍事に係る懸案を一括処理する権限と人材を与えた。近衛は内閣参議として、宇垣一成、末次信正、荒木貞夫ら陸海軍の実力者を抜擢配置し、中国との紛争解決に内閣(政府)が強力な主導権を発揮しようとした。

近衛がこの制度を発案した背景には、日中戦争開始以後、日本軍の動向が内閣官邸に充分に届かず、陸軍の情報統制が懸案処理の大きな障害となっていた事実を打開したいとする意向があったからである。

近衛は、これ以外にも政府の戦争指導権を確立する狙いから、日清·日露戦争期に設置された大本営に倣い、首相を構成員とする大本営設置を構想し、陸海軍に提案した。陸海軍との交渉の結果、大本営の設置には了解が得られたものの、首相を構成員として出席させることに陸軍側が反対し、海軍に至っては大本営設置自体に難色を示す有様だった。

そのため陸軍省軍務局は次善の策として首相は構成員としないが、政戦両略に関する重要事項に関しては政府側から内閣総理大臣、外務大臣、大蔵大臣、内務大臣の四主要閣僚の出席を可とする案を提出した。その結果、この案を基礎として、同年年11月18日に「大本営令」が公布されることになる。

その第一条には、「天皇の大纛(天皇の旗のこと·筆者注)の下に最高統帥部を置き、之を大本営と称す」とあり、さらに第三条には「参謀総長及海軍軍令部長は各其の幕僚の長としていあく(いあく条)の機能に奉仕し、作戦を参画し、終局の目的にそな(そなに)へ陸海軍の策応ず協同を図るを任とす」とある。

以上の条文から大本営は、天皇大権の下における最高唯一の統帥部であって、そこには幕僚および各機関の最高統帥部が置かれるとした。参謀本部及海軍軍令部は、いずれも統帥事務を担い、戦時においては文字通り戦争指導機関としての役割を一手に担うと明記された。従って、大本営は「最高統帥部」であって政治機関ではなく、当初近衛首相が意図した国務(=政治)と統帥(=軍事)の統合機関としての大本営設置構想とはほど遠いものとなった。

言い換えれば、近衛首相らが構想した政軍関係の調整、あるいは政戦両略一致の方向性は、逆に軍部によって大本営という名の政府への対抗拠点の創出という結果に終わってしまったのである。ただ、軍部にとっても臨時軍事費の捻出が日中戦争の戦線拡大に伴い緊急の課題となりつつあったことから、政府との関係を完全に遮断できるものではなかった。そのため戦争指導の円滑な運用を理由として、政府と軍部との恒常的連絡機関の整備が不可欠とする認識を両者とも抱くに至った。そこで同年11月19日付で大本営政府連絡会議が設置されることになる。

この会議は、随時会談を開催する協議体として位置づけられ、参謀総長、軍令部総長、内閣総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣および所要の閣僚から構成された。実務は政府側から内閣書記官長、大本営側から陸·海軍の軍務局長が担当することになった。特に重要な問題が討議の対象となった場合には、参謀総長、軍令部総長、内閣総理大臣が御前会議の開催を奏請することとした。

こうして国務と統帥との間に協議による戦争指導機関が設置されはしたが、それは政府と統帥部との「申し合わせ」によって設置されたに過ぎない。官制によるものではなく、閣議のように法的根拠を全く有しない基盤の弱いものであった。

事実、軍部は実際の協議においても統帥権独立制を盾に自己に有利な戦争指導体制創出に奔走した。例えば、1941(昭和16)年6月26日の第三回連絡懇談会の席上、南方対策として武力進出があり得るかどうかという松岡洋右外相(第二次近衛文麿内閣)の質問に、塚田攻参謀次長が「事政略に関しては別とし、純統帥に関する事項は相談する必要なく、又此の如き状況はおきていない。相談すれば引きづられるから、引きづられぬ様にする為に自主的に決めたのである」[3]と答えたことに象徴的に示されていた[4]

さらに、参戦(外交)問題と武力行使統帥問題との不可分を説く松岡外相の執拗な追及にも、塚田参謀次長は統帥権独立制の絶対性を根拠とする狭義統帥論を持ち出し、「政略上の事は相談可なるも、武力は敗るか勝つかの問題、高等政策は相談可なるも統帥は不可なり」(注 同上)と述べて政略と戦略の相違性を強調し、あくまで政戦両略の一致(国務と統帥の一体化)の実現に対する否定的姿勢を崩そうとしなかったのである[5]。それは小磯国昭内閣時に設置された最高戦争指導会議においても基本的には同様であった。

政戦両略の不一致あるいは国務と統帥の対立·抗争こそ、多元的国家機構を特徴とする天皇制国家の矛盾が露呈されたものでもあった。そうした矛盾を克服する方法は、天皇の権威に依拠するほかなかった。終戦工作時に具現されたように、強力な戦争指導を遂行する真の実力者としての天皇による「聖断」の形式を踏まない限り、政軍関係の調整による戦争終結は困難であったのである。

戦争指導体制の分裂

連絡懇談会は戦争指導体制の一元化と、その強化を目的として設置されたものの、このように統帥権独立制が最後まで足枷となっていた。重要国策の決定については御前会議の開催が必要とされたが、結局は重要国策の決定には天皇の権威を活用することで、政戦略の一致の実現を試みるしかなかった。

ここで最大の問題は、本来戦争指導の主導権を握るべき政府が、軍部の主導下にあった連絡懇談会に実質的に取り込まれて政府が戦争指導構成体のひとつとして位置づけられ、戦争指導運営上の相対的自立性を喪失していったことである。

それもあって、アジア太平洋戦争における戦局悪化により、東條英機内閣が断行した東條首相の陸軍大臣と参謀総長の三職兼任、嶋田繁太郎海軍大臣の軍令部総長兼任という人事関係を媒介とした政戦両略の一致への努力も、結局は兼任にともなう細部権限の下部委譲が全く実行されなかったこともあり、ことごとく失敗に帰した。この場合は東條及び嶋田の地位は形式以上のものではなく、特に参謀本部と海軍軍令部の両軍令機関の権限については事実上全く変更が加えられなかった。つまり、軍政·軍令の両機関のトップを同一人物が担ったとしても、従来の権限は何ら変化なかったのである。

そのことは、東條首相の三職兼任による戦争指導体制強化案に、それまで参謀総長であった杉山元大将が、「統帥と政務とは伝統として一緒になってはいけない。これは伝統の鉄則である。陸相が総長を兼ねては政治と統帥がこんき(こんき兼)する。かくして統帥の伸張は阻害される」(同前)と強硬に反対した経緯でも明らかであった。

このように単に人事による改革程度で統帥権独立制自体の弊害を解消することは全く不可能であり、本来の政府主導による戦争指導体制確立のためには、統帥権独立制自体の根本からの見直しが不可欠であった。そして、政戦両略の一体化に最後まで失敗した日本の戦争指導体制は、当然ながら現実の戦争遂行政策のうえで様々な障害を発生させることになったのである。

それは、すでに述べたように、広義における戦争指導体制の矛盾と同時に、狭義における戦争指導(作戦指導)の混乱を招くことになった。すなわち、国務と統帥の対立·抗争と併行して、作戦指導部内では陸軍と海軍の軋轢が目立っていた。すなわち、統帥権独立制によって、政治の統制から離れ、絶大な権限を保持した陸海軍は、軍事機構として肥大し続けてきた。特にアジア太平洋戦争期には作戦実施方針や戦争資材の確保などをめぐり深刻な対立を繰り返した。

例えば、日米開戦後の初期作戦終了後、海軍は引き続き太平洋地域の米海軍力削減を目標に据えた第二次ハワイ攻略作戦とアメリカとフィリピンの遮断を目的とするオーストラリア攻略作戦を主張し、陸軍もこれに呼応すべきとした。一方、陸軍は戦争継続に不可欠な戦略資源の確保を目的とした南方作戦が一応終了し、初期の目的を実現させた状況下では、海軍も含め国家の総力をあげ、陸軍の従来からの基本作戦目標であった対ソ戦準備と実行と、膠着状態にあった中国戦線を打開して中国の完全武力制圧を急ぐべきだとしていたのである。

1942(昭和17)年3月に大本営政府連絡会議が策定した「今後と(と会)るべき戦争指導の大綱」では、こうした陸海軍の作戦方針の不一致から生じる対立を回避するために、陸海軍それぞれの主張を同時に満たす折衷案が採用されることになったものの、実際には対立の解消、協調関係の成立とまでは進まなかった。このように、国力の現状を踏まえた総合的観点により、統一性と協調性を保った戦争指導体制も戦争指導方針も確立されないままであった。

陸海軍の作戦方針の未調整は、従来から陸海軍間で続けられてきた主導権争いや仮想敵国の違いなどに起因するものでもあったが、徹底した国家総力戦として戦われたアジア太平洋戦争において、国家の戦力を二分するに等しい陸海軍の作戦指導上の不一致は、戦力が底をついていた状況下ではなおさら、敗北への道に拍車をかけることになった。

以上が日本の政軍関係の実態であったが、それではアメリカとイギリスの政軍関係はどのようなものであったのか概観しておこう。

米英の戦争指導体制

アメリカやイギリスの戦争指導は、種々の点で日本のそれと比較して特異な戦争指導体制なり内容を有していた。日本との相違は歴然としていた。

まず、アメリカの本格的な戦争指導体制は、1942年2月に設置された統合参謀本部(JSC)によって確立されたとみなすことができよう。陸軍参謀総長、陸軍航空総司令官、海軍作戦部長、それに大統領付首席補佐官(レイヒ提督)を構成員とする統合参謀本部は、イギリスとの共同軍事作戦計画を検討するために設置された合同参謀本部へのアメリカ側の参加構成員でもあり、同時にアメリカ軍の海外における全作戦の計画立案·指揮の統一機関としての役割を担った。JSCは、それまでの唯一最高の軍事指導機関であった統合委員会(JointBord)を拡大発展させたものである。

しかし、それはただ単に軍事指導上の最高機関で最高の軍事的勧告機関というよりは、大統領直属の戦争指導機関として全般的な戦争指導上、大統領に次ぐ重要な政治的役割を担う組織でもあった。平時における文民共同による戦争指導機関として、既に常設連絡委員会(構成員は国務次官·陸軍参謀総長·海軍作戦部長)、戦争指導会議(国務長官·陸海軍両長官·陸軍参謀総長·海軍作戦部長)、三人委員会(国務長官·陸海軍両長官)などが存在したが、戦争開始とともにその活動を中止するか、微々たる役割しか果たさなかった。

政戦両略の一致および調整機関としては、政軍協議会(国務長官·陸海軍両長官·経済動員局長·各参謀総長)が一定の役割を担い、統合参謀本部が軍事領域の責任を一括して負う形で、絶大な権限を持つ大統領のもとに政戦両略の一元化が図られていた。

実際にはアジア太平洋戦争期における戦争指導は、ローズベルト大統領が側近の軍人指導者あるいは軍部の権限を大幅に認めつつ、最終的に文字通り大統領の強い個性と指導力が縦横に発揮されるなかで、全軍一致および戦争指導の一元化の徹底が図られたと指摘できる。その限りでは、日本の戦争指導における国務と統帥あるいは軍事機構内部における不一致や対立という状況は、アメリカではほとんど見られなかった[6]

一方、イギリスではチャーチル首相が、1940年5月に小人数から構成される戦時内閣の首班となり、同時に軍部への強力な統制権を持つ国防大臣を兼職した。そのため、戦争指導における無制限に近い権限を一手に確保することになった。軍事機構においては、すでに参謀長委員会が存在し、具体的な作戦指導機関として機能してはいたが、戦争指導全般への統一的指導力という点においてチャーチルの元に全ての権限が集中されていた。実際、チャーチルは作戦指導まで軍人と共同しつつ、強力な主導権を発揮したのである。

このように米英の戦争指導体制は文民である大統領および首相の戦争作戦指導をも含めた戦争指導全般にわたる強力な権限を特徴とし、いわば文民指導者に軍部が全面的に服従する戦争指導機構をつくりあげるなかで、逆に軍部が一定の政治的軍事的役割を担う組織としての位置を確保していたことが知れる。

それは本来の戦争指導体制の点からして極めて合理的な戦争指導態勢が整備されていたことを意味し、危険な独走や視野の狭さから生ずる独断を回避して、文民指導者との共同による戦争指導の運営という点では、ほぼ理想的な態勢を確立していたと言えよう。米英においては、文民による軍部の統制(文民統制·文民優越)の概念や制度が、民主主義の発展のなかで確立されてきた歴史があり、軍部も積極的に文民による統制に従うことで、自らの立場を強化し、同時に軍事機構の充実を指向した経緯が存在したのである。

この点において統帥権独立制を終始一貫して主張し続けることで文民による統制を拒否し、軍部の自律性に固執した日本の軍部との基本的な相違が認められる。日本軍部のこの姿勢では、総力戦状況に不可欠な文民と軍人との共同関係による戦争指導体制の確立は望むべくもなかった。日本軍部は個別的な作戦の勝利にのみ囚われ、戦争の全局のなかで個別作戦を位置づけ、対処していくという術を著しく欠いていたのである。

アジア太平洋戦争は、予想を遥かに超えた徹底した総力戦であった。そこでは国家の統一的な文字通り国力を結集する必要に否応なく迫られる戦争であった。従って、総力戦の勝敗の帰趨は決して戦力だけによって決まるわけではない。しかし、最低限戦力の充実と戦争方針の統一は不可欠な勝敗を決する要素であることも間違いなかった。

既述した通り、その点では日本と欧米との戦争指導体制には明らかな相違が見られた。政治と軍事の関係を、どう規定しておくかは、その意味で極めて重大な課題であったはずである。ところが、日本の戦争指導は、明らかに統一的な作戦方針も、統帥権独立制が決定的な足枷となって、最後の最後まで統一性を欠いた内容のままであった。国力差や戦力差に加えて、こうした政軍関係の矛盾が日本をして、アジア太平洋戦争での敗北に追いやった重要な原因となったことは確かであろう。

第2章 明治国家と統帥権独立制~戦争指導を規定した日本軍部の特権制度~

統帥権独立制の位置

緊急権国家としての一貫性を保持してきた明治国家において、国家機能の重要なひとつとして軍隊指揮権(=統帥権)の内閣行政権および議会立法権からの独立(=統帥権独立制度)が大日本帝国憲法(以下、明治憲法)制定以前から準備されていた。具体的には、1878(明治11)年12月、陸軍省から参謀本部が独立し、それまで太政官が保持していた軍隊指揮権を天皇が受け継ぐことになった。天皇の統帥権保持による兵政分離の措置である。

本来、絶対主義の時代にあって兵権(=武権)は国王の下に一元的に掌握されたが、イギリスの場合は1688年2月議会(Convention Parliament)において「権利宣言」が可決され、同年12月16日に作成公表された「権利章典」第六項において、「常備軍の徴募又は維持することは、議会の承諾を以てなされるのでなければ、法に反する」との規定を設け、議会による軍隊=兵権に対する統制管理が徹底され、明らかな議会(=文権)優越の制度が確立していく[7]。このイギリスにおける文権優越という政治と軍事の関係性が、アメリカの「独立宣言」やフランスの「人民及び市民の権利宣言」などにも活かされることになり、近代国家成立以降、欧米における兵政両権の関係は文権優越制度が恒常化する。

その一方では、ドイツ·プロイセンと日本の場合、絶対君主政体が立憲君主政体への移行過程で武権が議会によって掣肘·統制されないために、皇帝·天皇の権力の核心をなす軍隊の指揮権を意味する統帥権(Oberbefehl)を議会及び政府から独立させた。取り分け、明治国家はその創設時における三職七科制において、軍政·軍令事項を担当する機関として海陸軍科を設置し、その長官である海陸軍総督に権限が統一的に保持され、海陸軍総督は太政官に直属したことから、三職八局制下の軍防事務局を嚆矢に、以来軍務官、兵部省など軍務·統帥を管掌する機関のうちに兵政両権が統一的に把握されていた[8]

しかしながら、1878(明治11)年12月、参謀本部の独立をもって兵政両権の分離が実施された。欧米においては基本的に兵政分離が実施されず、その一方でドイツ·プロイセンでは議会の軍隊への統制·掣肘を回避するために兵政分離が実行された。そうしたなかで日本の場合には、なぜ議会の設置以前に太政官(行政府)から兵政分離が施行されたのかが、大きな歴史的問題となる。

そこで小論は、「参謀本部条例」制定による参謀本部の設置を境にして成立した統帥権独立制の意味を欧米諸国の兵政両権の議会·行政府による統制·掣肘の歴史との対比のなかで検討しようとする試みの一環としてある。それにより、統帥権独立制が実は「非常事態国家·緊急権国家」としての明治国家にとり、不可欠な国家システムとして位置づけられていたことを論証しようとするものである[9]

明治国家の緊急権システム

明治国家は、その成立以降、一貫した“緊急権国家”としての歴史を刻み、文字通り有事国家·緊張国家としての歴史を歩み続けた。すなわち、明治国家は常に「外圧」の危機を設定し、その対応過程のなかで国内の有事体制化に奔走し続け、その過程で国家機能の軍事化と国民の統制·管理(監視)体制が強化されていった。絶え間ない侵略戦争の発動と徹底した思想弾圧の歴史事例が、そのことを克明に証明している。外に向かっての〈侵略国家日本〉、内に向かっての〈治安警察国家〉という明治国家に刻印された国家体質は、この国を常に「非常時」(=有事)状態に追い込んだ。そして、この「非常事態」に対応して明治国家は、重層的な「国家緊急権」体制を敷くことになる。

この場合、「国家緊急権」(Staatsnotrecht)とは、「戦争、内乱、大規模自然災害等国家の維持·存続を脅かす重大な非常事態に際して、平常時の立憲主義的統治機構のままではこれに有効に対処しえないという場合に、執行権(政府·軍部)に特別の権限を付与または委任して特別の緊急措置をとり得るように国家的権力配置を移行する例外的な権能」(注4)を示すものである。

しかしながら、明治国家は、このような意味での「非常事態」には,国家緊急権を発動せずとも、全国に張り巡らされた強力な警察機構が存在して民衆の監視と弾圧のシステムを整備しており、さらに警察の背後に天皇の軍隊が治安出動体制をも整えていたはずである。その上に敢えて「国家緊急権」を用意したのは、国家自体の存在性·正統性が危機に陥った場合、迅速かつ圧倒的な権力により危機を回避し、国家の目的を達成する合理的な根拠を得ていくためであった。

「国家緊急権」には、具体的には既存憲法の臨時的解釈替え、憲法自体の一時停止や一切の法の停止による独裁的措置(超立法的独裁)など、いくつかの発現の仕方があるが、一時的にせよ法治国家という形態を放棄し、通常の憲法運営の軌道を逸脱したうえで敢行される権力意志の全面的な展開を目的とする。そこでは権力意志が貫徹されるために、民衆の基本的な人権は無視ないし軽視されることになる。

明治国家は強大な軍事力と警察力を備えた軍事警察国家ではあったが、国内的には絶えず深刻で解決不可能な矛盾や課題を背負うことになった。そのためにも軍隊や警察など物理的な暴力的装置と同時に矛盾や課題の告発者たちを抑圧する国家緊急権システムが不可欠であった。この国家緊急権システムこそ、国家運営上,明治国家の基本構造となり、文字通り明治国家を支える屋台骨として機能することになる。

「明治憲法」体制下における明治国家の緊急権システムは、戦争·内乱等の非常事態に対処し、軍隊·警察など物理的暴力装置の使用を前提とする戒厳(第14条)および非常大権(第31条)の規定と、非常事態の段階以前における非正常な状態において立法·財政上の例外措置を採り得るものとする緊急勅令(第8条)および緊急財政処分(第70条)に関する規定とに二分される。特に後者の第8条と第70条を“立法的緊急措置権”と称している[10]

「明治憲法」の第8条一項には、「天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス」と規定し、「緊急事態が発生した場合に限り、法律に代替する規定を天皇の大権発動による命令(勅令)を帝国議会の協賛を得ないで発することが出来るとした。これは「非正常」な状態という危機対処を目的とした天皇大権の発動だが、国家社会の安全確保の目的と「議会閉会」中という条件が課せられ、従って応急的臨時的措置として位置づけられる規定であった。

当然ながら、この勅令は次の帝国議会に提出される義務を負った。その帝国議会が不承諾の場合には、その効力を失効するものとされたのである(第8条2項)。その意味するところは緊急勅令の効力を暫定的限定的なものと位置づけ、「明治憲法」が前提とする立憲制の枠組みを根底から壊すものでないとされた。だが、実際には緊急勅令が既存の法律を廃止ないし変更する効力を持つとされる見解が憲法学説上の多数派を占めていたのである。

また、政府が勅令によって緊急財政処分を実施可能とする第七〇条について、帝国議会の協賛を絶対要件としてきた財政事項の分野にも政府が決定的な権限を確保するものであった。第70条には、これに触れて「公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需要アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ招集スルコト能ハサルトキ」と規定されていたのである。第八条の緊急勅令と同様に帝国議会が閉会中に生起する「緊急ノ需要アル場合」という非常事態への対応として位置づけられ、次会の会議において承諾を得る条件が付されてはいた。

確かに、「明治憲法」は民選議員から構成される議会の設置を認めてはいた。事実、法律や予算は議会の協賛なくして成立することは不可能であった。しかしながら、「明治憲法」は西欧型の議会と異なり、帝国議会の権能を極力制限するために天皇を「統治権の総覧者」とし、天皇に絶対的な権限を付与することで,議会=立法府に優越する政府(天皇)=行政権の存在を規定するものであった。例えば、独立命令(第9条)、宣戦(第13条)、皇室費(第66条)をはじめとする予算に関する制約など、天皇の大権が分厚く用意されていた。そのなかで緊急勅令や戒厳令、それに一度も発動はされなかったが、戦時または国家事変の際に「明治憲法」第2章「臣民権利義務」の一部または全部を停止する権限である非常大権(第31条)などは、明治国家の緊急権システムの代表的規定であった。

緊急勅令の制定には枢密院の諮詢を経ることが必要とされていた(枢密院官制第六条)が、天皇制支配体制(=国体)の牙城であった枢密院のチェックを受けることは、それ自体緊急勅令の性格が反議会主義反立憲的行為であることを意味するものであった。立憲君主政体の主要な構成体のひとつである議会の統制力を極力排除するシステムの立ち上げこそ、国家緊急権システムの意図であった。そして、この議会の統制力を排除する主要なシステムとして、明治国家創設以来一貫して整備されてきたものこそ、軍隊指揮権=統帥権の独立であったのである。

国家緊急権システムとしての統帥権独立制

内閣の行政権と軍部の軍事権は、本来的には軍事権は行政権に従属するものである。しかし、明治国家においては、この両権の優越性が明治国家の統治構造の決定的な特色と指摘されてきた。取り分け明治国家の後期、すなわち昭和初期の時代からは軍事権の優越性が顕著となってきた歴史過程がある。明治国家はイギリスに見出せるような議会(立法権)の優越性が最初から前提されていたケースと異なり、基本的には政府(行政権)と、これを支える官僚制の優位を保証する憲法体制を布くことになる。

そして、危機管理·有事法制という点で言えば、明治国家の場合は、既存の統治構造内に軍事権やその制度的存在としての軍隊を国家の基幹的位置に据え置く体制を採用していたため、軍事権の行政権に対する優越が現実の政治過程で常態化する。「富国強兵」という明治国家のスローガンは、まさしくこの軍事権優位の統治構造を平易に表現したものに他ならない。

また、軍部もその軍事権の優越性を縦横に用いて、さらなる軍事権の拡大を志向し、絶え間ない戦争発動による「非常事態」の喚起によって「緊張国家日本」の形成に向かうことになる。いわば「自作自演」的な軍部の政治手法は、結局のところ明治国家をして、世界史的にも類を見ない高度の危機管理·有事国家に押し上げていくのである。

それで、明治国家における政軍関係、少なくとも西南戦争の時期までは、密接不可分な一体的なものとしてあり、この時期までの政治と軍事は、単一の政治機構または単一の政治指導者の手に掌握されていた。ところが参謀本部設置に伴う統帥権独立制の制定は、日本軍隊創設一〇年後にして早くも明治国家の政軍関係に決定的な転換をもたらすことなる。つまり、それまで政治機構内に属していた軍事機構が、政治機構と並列·対等という形で分離し、政治と軍事とがそれぞれ全く別の機構を形成することになったのである。それは政治の軍事への干渉を排除し、軍事独自の活動を保証しようとするものであった。

1878(明治11)年12月5日、参謀本部の設置を境に統帥権(=軍令権)の独立が主張され始めた。具体的に言えば、それまで陸軍省の別局であった参謀局の廃止にともない、新設された参謀本部が完全な軍令機関となり、その長官である参謀本部長が陸軍卿(陸軍大臣の前身)から独立し、さらに優越する地位があたえられることになった。それは、「参謀本部条例」第二条の「帷幕ノ機務ニ参画スルヲ司ル」のなかの「帷幕」の意味から明らかである。

「帷幕」とは、天皇の幕下を意味し、参謀本部の長官である参謀本部長が、陸軍の軍令に関する天皇直属の幕僚長として軍令事項を掌握することである。それで、天皇の軍令権は参謀本部長の補佐によって施行されることになった。これは「参謀本部条例」第五条と第六条で官制史上初めて「軍令」の用語が使用され、軍令の意味するものが特に規定されていることからも判る。

「参謀本部条例」第五条では,軍事事項の施行は,「親裁(注·天皇による裁可)ノ後直ニ之ヲ陸軍卿ニ下シテ施行セシム」とあり、太政大臣や陸軍卿はその意志に関係なく施行する義務が課せられることになった。ここに参謀本部長の権限は、陸軍卿を長官とする陸軍省よりも優越する天皇に隷属し、軍令に関する天皇補佐の最高機関となったのである。

一方向陸軍省は参謀本部条例と同時に改正された「陸軍省官制」によって陸軍軍政の中央機関と位置づけられ、さらに同年の10月10日に制定された「陸軍省職制及職制事務章程」には、「陸軍卿ハ陸軍省ノ軍人軍属ヲ統理シ進退黜陟会計給与委細ノ事務ヲ統理スル所トス」(第三条)とされ、軍政の具体的内容が規定された。

それで参謀本部長は、「奏聞参画ノ責ニ任ジ親裁ノ後陸軍卿之ヲ奉行ス」(第7条)と追認され、さらに戦時における軍令施行手続きについては、「戦時ニ至リ監軍中将若クハ特命司令官ヲシテ一方ノ任ニ当ラシムルニ方テハ親裁ノ軍令ハ直ニ之ヲ監軍中将若くクハ特命司令官ニ下シ帷幄ト相通報シ間断ナカラスム」(第8条)とされた。作戦用兵の権限、つまり軍令権の発動は帷幄=参謀本部と直接軍隊を指揮する陸軍中将·特命司令官(後の師団長)が、これを施行するものと明記されたのである。これによって参謀本部は太政官(=政府)を経由せずに、軍事を天皇の「親裁」をもって「独立」させることになり、参謀本部長は政府の制約を受けることなく、自在に軍隊を動員し,指揮することが可能となった。戦後におけるシビリアン·コントロールとは正反対のミリタリー·コントロール法制化の第一歩である。

次いで、「緊急権国家」である明治国家が採用した国家緊急権システムのうち、本格的なシステムとしての統帥権独立が企画された経緯を整理しておきたい。筆者も従来の統帥権独立問題に関連する研究において、統帥権独立の理由を軍制的理由と政治的理由に分け、特に後者については明治期最大の軍隊反乱事件である「竹橋事件」(1878年)における軍隊への自由民権思想の影響という事実を教訓に軍首脳が軍隊を政治機構から、いわば“隔離”する手段として参謀本部を独立させ、その参謀本部に軍隊の指揮権を付与し、それを好機として以後軍隊の政治からの独立、換言すれば政治の軍事への不統制というシステムの立ち上げが実行された、と論じてきた[11]

この点に関連して、藤田嗣雄は、その著書『軍隊と自由』において,「天皇制はもともと過去数百年来軍隊によって支持されてはおらず、ポツダム宣言の受諾によって軍隊が解散されたのにも拘わらず、これと同時に天皇制は崩壊するに至らなかった。統帥権の独立が支持せんとしたのは、いわゆる『明治絶対制』であったことが、ここに実証されている」(注7)と述べ、統帥権独立制と明治絶対制との関連に言及している。しかし、敗戦後天皇制が残置されたのはアメリカの戦後アジア戦略の文脈から説明されるべきものであること、また「国家総動員法」(1838年4月制定)が,天皇大権をも制約する形で施行され、天皇制絶対主義を越える現代戦対応型の国家機能への転換が目的であったことを考慮すると、藤田の説明は説得的とは思われない。

確かに、統帥権独立制の目的が明治国家の絶対的権力による物理的暴力装置(=軍隊)の独占にあったことは間違いないが、明治国家の国家緊急権システムの主要な一環として案出されたと捉えたほうが合理的である。「統帥権の独立によって生ぜしめられるに至った軍事憲法と政治憲法の対立」(注8)と藤田自身も述べているように、統帥権の独立と後における内閣職権(1885年12月制定)及び明治憲法において、その法的位置づけが確立されていく過程こそ、軍隊指揮権に関わる軍事法を憲法体系のなかに固着させていく過程でもあった。それによって戦時状態において憲法に孕み込まれた軍事法が随意に発動して、藤田の言う「政治憲法」を凌駕する体制を整備していくのである。その意味で、統帥権独立制とは、明治国家をして軍事国家へと発展させていく法的な原動力であったのである。

内閣職権は、太政官制度の廃止にともない制定され、新たに内閣制度が組織されたが、「内閣職権」で内閣総理大臣は各大臣の首班として国務一般を処理し、軍事に関するものは参謀本部長の、いわゆる単独上奏権を認めることで軍事に関連する事項は内閣=政府が直接には触れることの出来ない領域とされた。すなわち、「内閣職権」第六条には、「各省大臣ハ主任ノ事務ニ付時々状況ヲ内閣総理大臣二報告スヘシ記事ノ軍機ニ係リ参謀本部長ヨリ直ニ上奏スルモノト雖モ陸軍大臣ハ其事件ヲ内閣総理大臣ニ報告スヘシ」と規定された通り、各省大臣は各管掌項について内閣総理大臣に報告義務が課せられたが、「軍機」に関するものは例外とされた。「参謀本部長ヨリ直ニ上奏スル」軍令事項が、内閣=政府の統制外に置かれることが改めて明記されたのである。

軍令権の政府からの独立は、「明治憲法」によっても確認されることになる。「明治憲法」において軍制に関わるのは、天皇の軍事大権とされる第11の「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と第12条の「天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」の条項がある。その「明治憲法」は大権中心主義を採用しており、天皇の大権と帝国議会とは大権を主とし、帝国議会を従とする関係に置かれた。それで、第11条を軍令大権または統帥大権、第一二条を軍政大権または編成大権と称した。

このなかで軍令大権の行使は、憲法解釈の通説として「明治憲法」第五五条の輔弼条項に属するものとされ、主に参謀本部長(後の参謀総長)と海軍「軍令部長(後の軍令部総長)の帷幄の補佐により施行されるとした。しかし、このなかで軍令事項と同様に国務上の重要事項とされた軍政事項に関しては、この限りではなく、他の一般国務事項と同様に取り扱われた。こうして、軍令事項だけが帝国議会の議決を経ることなく、天皇の親裁によって決定されていく構造が形成されていったのである。

以上の内実を有する統帥権が政府の権限から独立して天皇直属の参謀本部の権限とした経緯を追うと、その推進役であった桂太郎の証言などから統帥権独立制に踏み切る背景には、極めて緊急避難的な措置としてあったことが知れる[12]。さらに、1878(明治11)年10月8日、陸軍卿山県有朋の名で太政官に提出された「陸軍省上申」[13]と題する参謀本部設置案にも、軍政·軍令の機構分化の必要性が説かれ、参謀事務を担当する軍令機関は「其責固ヨリ少々ニ非ナルナリ」であり、その役割が増大している現状に対応して「権限ノ如キモ亦、凡ソ本省ノ政令ト相並行セサルヘカラス」とし、参謀本部の担当任務を軍政機関である陸軍省と分掌することで、その権限の独自性と徹底化が要請されていた。具体的には、「機密ノ規画内ニ成テ遠大ノ謀略外ニ行ハル」ために、「本省ノ政令ニ相並行」した規模、体裁、権限を保有する軍令機関の設置を説いたのである。

桂が参謀本部設置の手本としたドイツ軍制において参謀局長は、ドイツ皇帝の直轄であり、日本の参謀本部もこれに倣ってドイツと同様の形態にすべきとしたのである。天皇に参謀本部を直属させることによって、軍事領域の主要な機能である軍政と軍令との分化,それに対応した軍事機構の拡大と発展という要請に沿うものであった。つまり、参謀設置以前の軍事機構が一様に太政官政府に隷属しており、太政官制の集権主義的性格から軍事機構の分化と、その機能の発展は保証されていたはずであった。さらに付け加えれば、軍事外の領域、すなわち政治領域に介入することなく、これを尊重してその統制に服することが軍事機関の原則となっていたのである。そのことを太政官政府の側から言えば、太政官制とは集権主義的な性格のひとつの具体的形態、つまり、軍事と政府の太政官政府への集中を意味したのである。

そこで桂が言う参謀事務の拡大と発展に参謀本部設置の目的があったとする説明は、当該期における軍政·軍令の機能的な分業が制度的に保証されていた太政官制のもとでは説得力に欠ける。参謀本部設置に伴う軍隊指揮権の行政権からの独立を意味する統帥権独立の説明には、政治的歴史的な背景が不可欠なのである。要するに、統帥権独立制こそは、「非常事態国家·緊張国家」として創出された明治国家が、対外政策としての戦争発動,対内課題としての治安維持という最高目的を遂行していくうえで不可欠な制度であったのである。そこから統帥権独立制とは、危機管理·非常事対応型の国家機構を整備していく過程で案出された国家緊急権システムであったとの把握が可能であろう。

国民非武装化政策と非常大権

統帥権独立制による国家の独占的武装化と反対に、明治国家は国民の全面的非武装化を急務の課題とした。その象徴的政策が、1876(明治9)年3月28日の廃刀令(太政官第38布告)である。それは欧米に典型事例を見いだせるように議会による軍隊への統制·掣肘の可能性を奪うばかりか、有事·非常時事態における国民総武装の可能性を阻み、権力との対等の関係を構築する前提を解除する政策でもあった。それは同時に近代国家の国民に保証されたはずの抵抗権·革命権行使の物理的手段を奪うものでもあった。

国民の政治的社会的権利を保証する制度としての議会による軍隊の統制·掣肘への途を閉ざし、国家による管理された国民と軍隊との関係の構築は、明らかに欧米諸国家に具現されたように国家の危機を国家的·国民的な危機と捉え、国民自ら自発的かつ主体的に国家防衛に参画する国家防衛体制も国家防衛意識も用意する可能性をも削ぐことになった。その意味からも統帥権独立制は、国家意識の国民的基盤を形成する余地をも奪うことになった。国民総武装化の機会を奪い、国家の有事のみ管理された·国民軍隊·を創出するという状況は,「非常事態·緊張国家」としての明治国家に内在する特徴であった[14]

ところで、緊急勅令に代表される立法的緊急措置権と異なり、戦争や内乱など「非常事態」への対処手段として、明治国家はその憲法に非常大権(第三一条)と戒厳(第一四条)の規定を設けた。この二つの条項は、何れも国家武力組織の発動を前提とする点や既存憲法を停止して文字通り超憲法的措置として国家の言う「非常事態」への対処が強行された点で、同一の類型に属する。

非常大権は、「本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」との規定により、「戦時又ハ国家事変」という非常事態に対する最高度の対処手段として規定された。これを美濃部達吉は国家非常事態克服のために武力の発動を充て、その手段として軍隊の専制的権力を容認したもので、戒厳大権を規定した第14条と相対応したものとする。

すなわち、第14条は戒厳の原因を規定し、第31条はその結果として軍隊の権能を容認したものとする見解である参謀本部設置の責任者であった桂太郎(当時、陸軍省第一局法則掛·軍中佐)は、「此年(注·1878年のこと)12月ニ参謀本部ハ天皇ノ直轄タラサルペカラストシ、純然タル軍事ヲ陣軍省ト引キ分ケ軍命令ハ直轄トナリ、軍事行政ハ政府ノ範囲ニ属スヘシトイフ自然ノ空気力起リシナリ、然レトモ来タ如何ナル方法、如何ナル組織トイフ研究ヲナシテ此ノ論ヲ立テラルニアラス、而シテ愈々参謀本部ヲ置キ、軍命令ハ天皇ノ直轄ト為ササルヘカラストイフ事トナリ」[15]とその自伝に記している。

戦後歴史学研究のなかで、この戒厳規定について詳細に論じた大江志乃夫も、この美濃部の見解を大体において支持しており、第14条と第31条は重複規定としている[16]。しかしながら、こうした見解は当時にあっては少数派であり、国家主義者が多勢を占めていた当時の法曹界にあっては非常大権が戒厳をも越えた格別の規定とする解釈が有力であった。

すなわち、非常大権の行使が戒厳の効力に留まらず、非常事態に対応した法整備や自由の制限をも課し得るものとし、天皇の大権を施行して必要な措置を講じることを可能とさせるものとしていたのである。この場合、天皇大権の一つとして位置づけられる非常大権の発動によって、天皇は全く法的拘束を受けることなく非常事態の内容に即し、自由裁量にて対応措置を断行できる権能を確保した。換言すれば、緊急勅令や戒厳の施行によっても解決不可能な高度な国家非常事態=危機を克服するための規定であるとされたのである。

非常大権は具体的にどのような形で発動されるかについては、明治憲法体制下においては一度も発動されなかったが故に、予測以上の域を出ない。つまり、最後まで、言うならば〈伝家の宝刀〉的な位置を占め続け、国家的危機には緊急勅令や戒厳令により危機克服が強行されてきたのである。それが軍事大権の発動を主軸にしての危機対処か、あるいは非軍事的措置による危機克服策として想定されていたのかについて、これまで多様な議論が存在する。但し、明らかなことは非常大権の施行者として直接に天皇の存在が極めて大きく位置づけられ、そこから明治国家の、もっと言えば明治緊急権国家の本質たる天皇による専制体制が何時でも発動されるシステムが幾つかの立法的緊急措置権の裏側で、まさしく超立法的緊急措置権として用意されていたのである。その意味で言えば、明治国家体制は二重の国家緊急権の発動システムを兼備した国家であったと言えよう。

明治憲法体制下にあって、この非常大権が一度も発動されなかった理由は、「国家総動員法」の制定公布と密接な関連を持つとされている。それでは明治国家体制下にあって、非常大権の位置を確定するうえでも、非常大権を物理的暴力の行使体としての軍隊を天皇による独占という形式によって支えた統帥権独立制の位置を通して検証することも可能であろう。

明治憲法制定以前における軍隊指揮権の定義付け作業を進めたうえで、1876(明治9)年9月7日、明治天皇は元老院議長有栖川宮熾仁に憲法編纂を命じた。これを契機として憲法制定要求運動が起きるが、その一方では明治政府主導による憲法制定作業が本格着手される。結局、憲法制定の主導権を取ったのは岩倉具視であり、1881(明治14)年7月憲法に関する建議を上奏する。これを受ける形で同年10月12日、「国会開設の勅諭」が下った。ここに伊藤博文が海外における憲法調査と憲法草案の作成を命じられていくが、その過程で「明治憲法」の本質たる基本的人権の制限、有事における戒厳令の施行による国内の軍事的秩序の徹底、軍隊指揮権の天皇への独占的掌握といった「明治憲法」の基本的な性格づけが検討されていく。

そこでは「統治権の総記者」としての天皇の絶対的位置が確定された。西欧における立憲君主制国家では、君主と国民代表(議会)の二機関が国家を代表する二機関並立制、あるいは二元主義が採用されたが、日本の場合は天皇のみが国家を代表する一元主義が採用された。そのような天皇の位置を絶対的に保証していく装置としての軍隊の指揮権が天皇の独占に帰着することになったのは、以上の文脈からすれば当然の帰結でもあった。問題は軍隊が天皇制=国家体制の骨格として位置づけられていく過程で、天皇の保有する非常大権が、この統帥権独立制によって保証されていったことであった。確かに明治憲法には、統帥権独立そのものを規定する条文は全く示されていないが、その後の政治過程において統帥権独立制は確実に強化されていったのである。

藤田嗣雄は『軍隊と自由』のなかで、「明治憲法において、絶対主義及び立憲主義の対立を先鋭化させたものは、統帥権の独立である」[17]と指摘した。それは、明治憲法の第4条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総撹シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」において、天皇を国家元首と規定することで天皇の絶対的な統治権を承認し、同時に後段で統治権が憲法の制約において施行されるとした点で、絶対主義と立憲主義の折衷が行われたとしている。

この第4条に含意されたこの両義性は、明治憲法体制の本質的要素を象徴するものであったが、欧米諸国と同質の近代国家創出の要請と同時に、欧米諸国との対等化を目的とするアジア地域での覇権国家日本の創出のため、アジアに向けた戦争発動と、その結果生じるであろう国内矛盾の深化への対処として、高度な治安警察国家の体制を整備していくためにも、統帥権独立制は不可欠な国家緊急権システムとして位置づけられたのである。

以上のような論点からすれば、統帥権独立制は、戦争国家日本と治安警察国家日本という国家機能を同時的に達成する制度でもあったと結論づけられよう。

第3章 日本型政軍関係の展開と日本の国家戦略~戦略不在の日本の戦争指導体制~

近代日本における政策決定の主体

近代日本は、長きにわたる封建社会からの脱出と、その解体の歴史として開始された。そこでは、軍隊と政党の二つの政治装置が封建社会を解体し、近代化への道を切り開くうえで重要な役割を担うことになり、同時に内外政策の決定主体として登場する。軍部は近代日本の発展に不可欠な国内秩序を確保するために創設されたものであったが、日本国民の利害調整機能を果たす政治装置として政党の創出も急がれた。

こうして近代日本の成立過程で、軍隊と政党という近代国家に必須の政治装置が起動することになり、近代国家としての内実が整えられるに至った。しかしながら、この二つの政治装置が相前後して起動し始めると、両者間には深刻な対立や抗争が露呈もし始める。すなわち、明治国家の軍隊が封建制の体質を色濃く残存させたまま創出されたのに対し、一方の政党がイギリスやフランスの自由主義的かつ立憲主義的な思想や色彩を伴って成立したこともあって、勢い両者間においては、当初から相互矛盾が強調される傾向が強く、そこから明治国家を支える政治装置でありながら、相互に協調関係を成立させるに至らなかったのである。それゆえに近代日本の内外政策の内容も、必然的に軍部と政党との相互関係のなかで決定される要素が大きかった。

世界史においても、封建国家から近代国家への展開過程において、通常は軍隊と政党という二つの政治装置が起動する。それで、欧米近代国家の軍隊は、市民革命を経由して「市民軍」あるいは「国民軍」として創設される歴史過程を歩んだ。それゆえに軍隊と政党とが協調し、相互補完的な関係を成立させることに成功したのに対して、近代日本の軍隊が市民革命を経由しないまま天皇制と密接不可分の関係性のなかで創出されたこともあって、封建制の克服という近代軍隊に課せられた役割という点では、一貫して不充分性を残存させたままであった。それが欧米型モデルを模範とする近代政党との齟齬や軋轢を生み出した主な原因であった。

このように、封建制の解体を担うために創出されたはずの日本の軍隊は、例えば自由民権運動や民党と称される諸政党の求める新たな政治秩序が、軍隊の基盤である封建的秩序の徹底的な除去と欧米型近代化を志向するものと捉え、これに反発を強めていくのである。自らの内に孕んだ封建的体質の自己証明とも指摘可能な事件例として一部軍隊の反乱事件である竹橋事件(1878年)がある。この事件を機会に山県有朋に代表される明治政府の指導者は、軍隊の政治からの分離を目的として参謀本部を独立させ、統帥権独立制度を確立しようとした。この制度の成立過程と成立理由のなかに、近代日本における政軍関係の構造的特質が集約されているように思われる。

すなわち、統帥権独立制は軍事への政治の介入や統制を排除しようとするものであったが、換言すれば軍事に対する政治統制を拒否することによって、欧米型近代化を阻み、封建的秩序を保守する試みとしてあったとも言える。しかしながら、第一次世界大戦に出現した戦争形態の総力戦化、別の意味で言えば戦争形態の近代化と政治化という流れのなかで、軍隊は自らの封建的秩序意識を克服し、文字通り自己革新することによって政党とも連携強化を志向するところとなり、政治と軍事との相互補完的な関係を模索していくことになったのである。

明治憲法体制下にあっては、天皇制国家が「国家統治ノ大権」=統治権力の全てを天皇に集中し、統治権力の施行機関を幾つにも分割して、権力の分散化·分権化を図ることで天皇の権力(=天皇大権)を凌駕する権力体創出の可能性を削いだこと、それと付随して軍事機構(軍隊)だけが天皇に直属する権力施行機関として天皇制国家の中核的存在と位置づけられたことは、ある意味で明治国家という近代国家が近代性と前近代性をも同時的に孕み込むという政治選択であった。そこにおいて、前近代性を全面化させる時、軍隊は天皇制国家の絶対意志を貫くうえで最も重要な役割を演じた。

内外政策決定主体の日本的特質と構造

そのような本質と役割を担った軍事機構は、他の官僚機構と比較しても特異な位置を終始占め続けたと言える。すなわち、天皇制国家が半封建的·絶対的な性格を残存させながらも、着実に資本主義化し、近代国家としての形式を整えていく過程で、軍隊は政治民主化や政治的諸権利を要求する民衆の動向を抑制かつ威嚇する暴力装置として強化·拡大し続けた。

しかしながら、軍事当局は決して硬直した対応に終始したのではない。天皇制国家が大正デモクラシー状況下で体制的な危機に直面した折りには、山梨軍縮や宇垣軍縮に象徴されるように、柔軟な姿勢を示すことで、逆に「国民の軍隊化」あるいは「軍隊の国民化」に一定の成果を挙げていき、同時に第一次世界大戦によって開始された戦争形態の総力戦に迅速に対応する積極的な政策を打ち出していったのである。

一方、日本資本主義の発展は国内の狭隘な市場の制約性を克服するために、国内産業資本の海外、取り分け朝鮮半島から中国大陸への資本投下先を求めて軍事力を背景としつつ、戦争政策を不可避とする外交戦略を採用していく。資本と技術の低位性を補完するために、軍事力に依存せざる得ない日本資本主義の実態ゆえに、軍事機構の肥大化は避けられない構造が定着していくのである[18]

こうして本来は封建遺制の保守と自己利益の確保を目的として構築された統帥権独立制が、結果的には一定の政治的地位を獲得していく制度となったのである。こうして軍事機構は帷幄上奏権や「軍令」などにより、他の官僚機構と比較して自立性·独立性を確保していくことになる。そのような軍事機構(軍隊)が、大正期における政党政治の成立という状況のなかで、選出勢力としての政党が民意を背景に政治の主体として台頭するようになると、組織原理も行動原理も全く異なる政党と軍隊とが、当初において連繋ではなく対抗関係を形成していくのは不可避的な事態であった。この両者の対抗·対立関係は、特に外交·戦争指導という局面において繰り返し表面化する。

言うまでもなく、政党は日本資本主義の発展過程のなかで政治の表舞台に本格的に登場する。そこにおいて、政友会と憲政会(民政党)の二大政党が三井と三菱の〝政治部·としての役割を果たす過程で、あくまで経済的利益の確保を優先する政党と、大陸国家日本への発展を掲げ、そのための軍事力の投入という企画を政策化しようとする軍部との間には、明らかな乖離現象が目立つようになって来る。取り分け、両者は、対中国政策の展開やアメリカおよびイギリスとの距離の取り方等について相反する国家目標を掲げるところとなり、それが国内における諸矛盾の噴出と重なって様々な局面で対立を先鋭化させるようになった。

しかしながら、その一方では第一次世界大戦が諸権力·諸勢力に与えた衝撃は強烈であり、そこから総力戦体制の構築という大方の合意を確保可能な国家目標が設定されるようになると国内の諸矛盾は抑制され、次第に政治と軍事の一体化への動きが現れるようになった。そこから政治と軍事の関係も、表面的には依然として対立·対抗の関係を維持したまま、その一方では同時に妥協と協調が模索されていく。確かに、日本の政軍関係は政治が軍事を統制するという欧米流のシステムを構築することに成功しなかったが、明治憲法体制に規定されつつも、軍主導の総力戦体制構築という要請が合意されるなか、軍部優位の政軍関係が1930年代の後半にかけて成立する。

そこでは最終的には軍事の政治への「合法的·間接的支配」が実現されていくが、そこでは最後まで合法性·間接性という点が留保された歴史事実とその理由こそ、あらためて着目する必要がある。なぜならば、そのような特徴が所謂「日本型政軍関係」と呼ぶことができるという事に留まらず、軍部支配の実態が合法性·間接性ゆえに、「日本型政軍関係」を充分に歴史事実の負の遺産として受け止めていない、という深刻な課題に直面するからである。以上の近代日本の内外政策の内容を概観する以前の課題として、その政策決定の主体の日本的特質と構造を確認しておくことが重要と考える。

近代日本の内外政策の変容

近代日本の政軍関係研究の目標は、日本の国家構造および国家目標の内容によって規定されながら、最終的には相互補完的な意味で協調体制を敷かざるを得なかった点を実証する事にある。すなわち、大正期から昭和初期にかけての政治と軍事との対立の争点は、その具体的組織としての政党と軍部という当該期における有力な二大政治装置の国家発展の方法と方向をめぐる戦略レベルでの問題であった。そのことを、三谷太一郎氏の用語を借りれば、政党という「選出勢力」か、それとも軍部という「非選出勢力」かの、いずれが国家の指導部を形成するかの対立であったのである。

より具体的に言えば、例え制約的であれ、戦前型民主主義システムを起動させるなかで国家発展の途を模索し、対外的には英米との連携の中で国際資本主義システムのなかに日本を編入することを選択しようとした政党や資本家等の総意を優先するか、逆に軍部主導の指導体制を構築するなかで、英米との連携を打ち切って大陸に覇権を確立し、自立した文字通りの軍事帝国主義国家日本を建設しようとする軍隊や革新官僚等の目標を優先するか、の問題であったと言えよう。それが既述したように政軍の乖離現象となって表出するのである。

そのような国家戦略の方向性を決定するうえで、政治と軍事とが時として対立を先鋭化させることもあったが、日本資本主義の技術的資本的なレベルでの低位水準に規定されながら、時にはいずれの側も英米に妥協的なスタンスを余技なくもされ、またそれとは逆に猛烈なナショナリズムの喚起のなかで脱英米への試みが突出することにもなる。要するに、二つの選択のなかで、政治と軍事が大きく揺れ動くのである。

そのことは現実の政治過程においては昭和初期以降、軍事の政治との対等化、あるいは軍部内閣の登場という事例において具現される。確かに、軍事が政治に介入し、かつ、政治を逆に統制する事態が常態化した。しかもそれが満州での軍事行動(満州事変)、国内での3月·10月事件(1931年)に代表される国内でのクーデタ計画、さらには犬養毅首相暗殺(5·15事件、1932年)による暴力とテロリズムによってもたらされたとしても、実際には政治の側が軍事の論理を受容していったことは客観的な事実であり、その限りでは軍事の政治介入はその手段の非合法性とは別に、軍事の「合法的·間接的支配」が実行に移された点をどのように把握するかが最大の問題となろう。

近代日本の内外政策の特質

それで政軍関係の実態を基軸に据えて、近代日本の内外政策の展開と内容を検討する場合には、次のような時代区分を設定することが効果的だと考えている。政治と軍事の関係史を、主に両者間の対立と妥協の政治過程分析の視角から追究してきた。この政治過程分析を踏まえ、政治と軍事の組織·機構·構造·制度といった側面から概観した場合、次のような五つの時期に内容的に区分できると考える。

すなわち、第一期は、1877(明治10)年に起きた西南戦争までの時期、第二期は、西南戦争を転機にその翌年参謀本部が独立し、軍事機構分立の方向性が打ち出された時期、第三期は、明治憲法制定(1889年2月)により、政治と軍事との分離が解釈上明確とされる時期、さらに、第四期は、陸海軍省官制の改正により軍部大臣現役武官制度が廃止(1936年6月)され、大臣·次官の任用資格を予後備役にまで拡大して、軍事への政治統制が格段と強化された時期、第五期は、1930(昭和5)年4月のロンドン海軍軍縮条約における統帥権干犯問題と翌年生じた満州事変(1931年9月)を契機とする軍部の独走、さらに1936(昭和11)年2月の2·26事件による軍部大臣現役武官制度の復活の時期、それに続く軍部の政治勢力化と軍部政権の成立の時期、である。従って、本論はこのうち、第四期と第五期を対象とする政軍関係史研究ということになる。

それで、第一期の特色は、政治と軍事が単一の政治機構、または単一の政治指導者の手に掌握され、政治機構と軍事機構の分立は見られず、両者は密接不可分のものとして存在したことである。従って、いわゆる政軍関係という形式は実態として存在しなかった時期と言える。ところが参謀本部の独立という形で軍政と軍令とが機構的·機能的に分離したことで、軍事機構の分立への方向が打ち出された第二期から、特に1885(明治18)年12月の内閣制度の確立により本格的な政軍関係が実態として成立する時代を迎える。

さらに、1907(明治40)年9月の「軍令」第一号の公示により、統帥権独立の制度的確立を果たしたものとして極めて重大な措置であった。すなわち、この措置は統帥について勅諚を経た規程を軍令とするとしたものであり、軍令部門に限定されていたとしても、軍令(=作戦指揮·作戦計画立案)部門の分立は、政治機構内に所属していた軍事機構が政治機構と並列·対等という形で存在することを意味した点で画期的な出来事であった。

但し、この機構的分立が直ちに両機構の対立·抗争に発展した訳でなく、この後も軍事機構の権限は最小限度に抑制された。大正デモクラシー状況を背景とする政党内閣の時代が第四期に相当し、折からの国際軍縮機運や軍備削減を要求する国内世論を原因として軍部大臣現役武官制度が廃止され、制度的側面からも国内世論的側面からも軍事が政治によって厳しく統制され、軍の威信も著しく低下した時期であった。

第五期は、政軍関係が最も激しく対立した抗争の時期である。この期間中の初期に政党内閣時代は、1932(昭和7)年5月の5·15事件のテロにより終末を迎え、軍部が統帥権独立制の徹底化や軍部大臣現役武官制度の復活を図りつつ政治勢力化し、ファシズム運動のなかで「合法的」に軍部政権を実現していく時代である。日中全面戦争開始以降、政軍関係は強力な戦争指導を進めるため、その関係調整を迫られた。さらにアジア太平洋戦争の開始以後における総力戦体制の構築が緊急課題となった状況下においては、一層強く要請されはしたが、大本営政府懇談会、最高戦争指導会議など、極めて限定的かつ便宜的な組織しか用意されず、政軍関係の調整は最後まで完全には実現することはなかった[19]

日本の政軍関係史の内容区分からして、まずハンチントンの「二重政府論」の理論的把握は、ここで示した第五期における政軍関係の対立·抗争期、あるいは軍事の政治介入が顕著化した時期を指したものであり、その限りでは時期的限定を明確にしたうえで議論を進める必要がある。それ以上に問題なのは、「二重政府論」(Dual Government)の用語を額面通りに受け取った場合、二つの「政府組織」が並立し、それぞれが政治·戦争指導及び国家政策の決定に携わり、この両組織が未調整の常態のまま国家運営が推展する、ということになろうか。しかし、果してそれが、ここで言う第五期の実態なのかは疑問である。

確かに陸軍省にせよ参謀本部などの軍事組織に勤務する中堅軍人官僚等が戦争指導の主導権を掌握し、さらに政治介入することで政治指導に相当の影響力や圧力を行使した事例は数多いが、だからといって直ちに併立する二つの「政府組織」が存在するという認識は、例えそれが比喩的な指摘であったとしても事実に正確でない。

1936(昭和11)年2月の2·26事件直後の廣田弘毅内閣も組閣過程で軍部の露骨な圧力により自由主義的人物の入閣が阻止された経緯もあったが、それでも外務官僚出身者の廣田弘毅に大命降下があったことは、軍部が前面に出られない政治状況にあったことを示すものと理解するのが正確であろう。

日米開戦時の東條英機「軍部」内閣も、彼を推薦したのは木戸幸一を中心とする重臣·宮中グループであり、以後東條打倒工作が水面下で始まっていた段階でも、木戸は天皇の意向を受けつつ、東條支持の態度を変更することなく、言わば軍部内閣との協調関係を維持した経緯が存在するのである[20](注3)。要するに両者は、一つの「政府組織」内部で対立と妥協を繰り返していたのである。

そして、天皇と木戸の支持を失った東條内閣が総辞職に追込まれたのも、実際には「二重政府」は存在せず、天皇を支える木戸及び重臣グループが政局の指導権を握り、同時に日本の政治体制が天皇のもとに一元化されていたことを明白に示すものであった。従って、「東條独裁」なる把握は、実態とほど遠いのである。その意味で日本軍部の政治介入の実態を、軍部による「合法的·間接的支配」とする位置づけのほうより正確な把握であろう[21]

さらに言えば重臣·宮中グループに代表される所謂「穏健派」=対英米協調派と、軍部·革新官僚に代表される「革新派」=アジア·モンロー主義派との対立·抗争と妥協·協調の繰り返しのなかで、特に日中全面戦争以降は、前者の後者への妥協を背景としつつ、後者の主導権のもと一連の対外戦争が企画され、推進されたのである。アジア太平洋戦争は、言わば前者の了解の下に進められた妥協の産物として把握されるべきである。そして、東條内閣打倒工作は、戦局の悪化にともなう敗戦責任の所在と、天皇および天皇制の存続の危険が政治問題化するに至り、両者の協調関係が崩壊したことを意味するものであった。

そうした観点からすれば、ハンチントンの提示した「二重政府論」という日本の政軍関係の把握は、逆に実態把握を見誤る危険があろう。そうした把握では、勢い戦争政策の推進役として軍部·革新官僚などの役割や位置を高く見てしまうことになり、重臣·宮中グループらの政治行動を軽視ないし無視してしまうことになりかねない。決して軍部や革新官僚の位置を相対的に低くみる訳ではないが、政軍関係の実態という点で要約するならば、それは決して並行的で対等の関係でもなく、それは重層的かつ相補的な関係にあったのである。

以上の点から近代日本の内外政策の特質として以下の諸点を挙げておきたい。その第一は政策決定の基本的な主体としての政党勢力と軍部勢力の対立と妥協の所産として政策決定されていったこと、第二に国内政治の目標としての国家総力戦体制の構築と、外交戦略としての大陸国家化という基本目標とが常に表裏一体ものとしてあったことである。それゆえ近代日本内外政策とは、最終的には清国(中国)、ロシア、中国、英米、そしてソ連との外交関係とその破綻としての戦争という事態によって常に規定され続けたことである。台湾や朝鮮に対する長きにわたる植民地支配と「戦後経営」の名による「帝国経営」こそが、近代日本の内外政策の質と方向を決定づけたのであり、それがまた帝国日本の崩壊に結果したのであった。

日本型政軍関係の特質と政戦両略の不一致

次に少し別の角度から政軍関係を論じておきたい。それは、日本型政軍関係の特質とも言える政治と軍事の不一致、換言すれば政戦両略の不一致が、政軍両略の一致あるいは一元化を前提とする国家戦略の不在性を結果した点についてである。

明治近代国家は権力の多元化·分権化(軍部、政党、官僚制、議会等)を統治構造の特徴とする所謂「多元的連合体」であったがゆえに、中長期的かつ統一的な国家戦略を構想し、政策化することに困難を伴った。第一次世界大戦を契機にし、国家総力戦体制の構築という要請が意識されながら、その実現に完全を期し得なかったのは、その国家的特質ゆえであった。それが、また、内外政策決定主体を形成するうえでも、また、統一的かつ合理的な政策決定自体の阻害要因となった。そのことは、今日における国家戦略の形成という観点からしても、重要な歴史的教訓となっていよう。

これらの点については、既に多くの先行研究が論究しているように、戦前期日本の政軍関係は、軍部が天皇大権のひとつである統帥大権を根拠に軍事との並行関係に置かれた。勿論、統帥権独立制は、原敬内閣時に具現されたように、軍部大臣現役武官制の廃止の実施や、参謀本部廃止論が議論されるなど、政党による軍事の統制が試みられた経緯が存在した。しかし、こうした試みも、軍部の激しい反発を招き、それが、満州事変(1931年9月18日)による陸軍勢力の台頭や、5·15事件(1932年)による政党内閣制の終焉を誘因したのである。

それでは日本における政軍関係をどのように捉えたらよいのだろうか。この点について、筆者は、近著『近代日本政軍関係の研究』において、社会統合の主体として競合関係にあった軍部と政党という日本型政軍関係を、「統帥権独立制による社会的統合を目標とした軍部(軍事)と、これに対抗して民意による社会的統合を実現しようとした政党(政治)との相互関係」と位置づけた。つまり、日本においては政治と軍事が、社会統合をそれぞれ別個に目標化して競合し、融合あるいは一体化する志向性が希薄であったと結論づけた[22]

より具体的に言えば、軍部は官僚と結託し、政党勢力あるいは民意を排除することによって、国家総力戦体制の構築を展望しようとし、現実にそれはある程度成功したと言える。日本社会の総力戦化が、ある意味では大衆の戦時動員を促進させる上で一定の効果を上げたのも確かではあった。総力戦はまたアジア太平洋戦争期における社会の近代化と平等化を結果することになった[23](注6)。

しかしながら、このような日本型政軍関係は、政軍関係の一体化、換言すれば平時と戦時とを通底する長期的で合理的な国家戦略の設定を不可能とした。筆者は政軍関係史を叙述するうえで、良く引き合いに出す事例を紹介しておこう。

日米開戦を翌年に控えた1940(昭和15)年11月26、政府と軍部との連携の必要性から、「軽易ニ政府ト統帥部トノ連絡懇談ヲ行ハン」とするために、首相官邸に設置された連絡懇談会は、その役割が「本会議にニ於テ決定セル事項ハ閣議決定以上ノ効力ヲ有シ戦争指導上帝国ノ国策トシテ強力ニ施策セラムヘキモノトスル」とされた(注7)。そして、政府と軍部とが協議により決定する重要国策は、御前会議とこの連絡懇談会によって決定するとされたのであるから、事実上の最高意思決定機関となったのである。

このような位置づけが明確にされていたのにも拘わらず、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱ノ件」を参照して言えば、1941(昭和16)年6月26日に開催された第3回連絡懇談会の席上、南方対策として武力進出の可能性を問うた松岡洋右が外務大臣に対し、塚田攻参謀次長は、「事政略ニ関シテハ別トシ、統帥部ニ関スル事項ハ相談スル必要ナク、又此ノ如キ状況ハオキテイナイ。相談スレバ引キヅラレルカラ、引キヅラレヌ様ニスル為自主的ニト決メタノデアル」(注8)と答弁した。松岡外相は、武力進出=参戦は外交問題であり、武力行使自体が例え統帥問題だとしても、外交との絡みからすれば、軍部の意向を問い質すのは至極当然であった。松岡外相は、外交問題と統帥問題とは、密接不可分の問題であり、それ故に政府と軍部の調整が不可欠とする判断を示したに過ぎない。

ここに端的に示されたのは、軍部は政府と協議のテーブルには着くもののそれはあくまで戦略上必要とする場合であり、協議の内容が戦略を左右するものであれば、その限りではないことを言明したものであった。換言すれば、塚田参謀次長の回答にあるように、戦略はあくまで軍部の独占領域であって、政略的判断は外とされたのである。松岡外相と塚田参謀次長の応酬は、そのまま日米開戦を目前に控えてもなお、政戦両略不一致が克服されていないことの典型事例であった。

日米戦争開始が日米交渉妥結成立か、極めて難しい局面のなかで、依然として政戦両略の一致のなかで、戦争に対応する国内体制の整備が焦眉の課題となりながら、政戦両略不一致の事態を克服できなかったことは、同時に戦前期の日本において国家戦略を樹立できなかった証明でもある。

言うまでもなく、国家戦略はここで言う政戦両略の一致という前提のなかで構想され、設定されるものである。かつて山県有朋は、1905(明治38年)3月23日に桂太郎首相に提出した「政戦両略概論」において、「大作戦の計画は常に国家の政策と相一致せさるへからさるものにして萬一両者の間に支吾杆格の存することあらん乎縦令戦場に於て捷利を得るも結局国家の利益を進むるに足らさはなり」[24]と断じた。換言すれば、政治と軍事との「相一致」(=政戦両略の一致)こそが、国家利益の増進に結果すると説いた。山県にとって、国家利益の増進を実現する方途が、国家戦略であったのである。

しかし、この山県の主張も、山県自身や桂太郎に代表されるように、政治指導者が直ちに軍事指導者であった時代にあっては、政戦両略の一致は果たされはしていたが、本来明治国家自体が、軍部なり内閣など、多様な国家機関が一定の権限を分与され、相互に分立した、言うならば分権国家であり、多様な組織体が連合して構築された多元的連合体としてあったことから、諸国家機関あるいは諸組織体を束ねる大権保持者である天皇が政戦両略一致の前面に出ない限り、本来的には政戦両略の一致は不可能であった。

大権保持者の天皇が、取り分け昭和天皇の時代は、立憲君主主義という場合の立憲制に重点が置かれ、君主制が後退する時代状況であったことも手伝い、多元的連合体国家としての構造的特質が顕在化したと言える。明治国家をして、「国家戦略なき国家」(=国家戦略の不在性)とする評価が繰り返されているが、それは明治国家自体の国家構造から帰結されるものであったとすべきであろう。

第4章 結章~日本の中国侵略計画の変容~

日本の対中国侵攻計画が、如何なる方法及び手順によって強行されたかについては、纐纈の史料解説論文「日本の対中国戦争指導体制と方針」で主要な関連史料を引用紹介しながら論述している。それで、主には同論文を参照されたいが、本論との関連で今一度、日本の中国侵攻計画の流れと、その背景にある者を多少の重複を敢えてしながら以下、結論として概括しておきたい。

日本の対中国侵攻計画が日本の戦争指導体制の課題目標として、一貫して設定されたとは必ずしも断定することは出来ない。本論で指摘したように日本の政治及び戦争指導体制において、完全な合意が形成され、その合意事項に従って対中国侵攻計画が展開された訳ではない。事実は、戦争指導体制内における権力の変容によって、侵攻計画が突出したり、緩和されたりしたのである。だからと言って、その事が日本の対中国侵攻計画が偶然的な出来事であったとか、あるいは専制的権力者による独断専行の形で進められ、軍中央や国家·政府の責任は相対的に低位に見積もるのは誤っていると考える。

加害の側から、責任回避のために、どのような詭弁を弄しようとも、被害や侵略の歴史事実は不変である。その点を最初に踏まえたうえで、近代日本の生成期から日本の敗戦に至るまでの対中国侵攻計画については、一定の大方針が暗黙のうちに合意され、実行に移されたことは歴史事実である。

その場合、明治国家成立以後、直ちに戦争指導体制の主導権を掌握したのは日本陸軍であり、その事実上の創設者である山県有朋であった。山県が構想した戦争指導体制は、政治指導体制と分立した機能を持たせ、政治の動きに翻弄されず、軍独自の方向性のなかで政治そのものを誘導する体制を整備することであった。そのような体制構築が可能であった理由には、日本の急速な近代化·資本主義化のなかで、欧米諸列強と対抗可能な国力を保持するためには、政府直轄の物理的基盤としての軍隊の養成が必須の課題と国家指導層に強く認識されたことがある。

明治近代国家成立後、僅かにして約1万名から編成される軍隊が創設され、さらに1873(明治6)年には、早くも徴兵制が施行される等、短期間に軍装備体系が整備され始めるのは、その証左であった。そうしたハード面の整備が着々と実行されるなかで、言うならばソフト面において対中国侵略の方針を説き続けたのが山県有朋でもあった。既に史料論文でも指摘したように、対国内鎮圧用軍隊として創設された日本軍は、早くも「隣邦兵備略」(1880年11月)において、明らかに清国(中国)を第一の仮想敵国とする軍備拡充を主張した。この時点から日本の対中国姿勢が本格化する。

その後、連綿として軍備拡充計画を説き、多くの支持者を周辺に集めていき、国家方針へと昇格していく。そこでの基調は、可能であれば清国(中国)との「友好関係」の構築を展望するが、それも日本側の利権把握を中国側が容認することを条件とする、極めて一方的な「友好関係」であった。その後、ついに日清戦争を引き起こし、勢いに乗った日本は、さらに日露戦争での「勝利」を経て、中国東北地域での覇権掌握を国家方針とするまでにいたった。その基調は、第一次世界大戦期における「対支21カ条要求」となって具体化し、当然ながら中国側からの反発を招く。

中国国内にも、直ちに対日強硬姿勢で一致した訳ではなかったが、中国民衆のなかに根強い反日感情·反日姿勢が形成されていく。1920年代に入り、世界的な経済不況の波がアジア地域にも押し寄せるなかで、日本は一段と対中国侵攻計画を重点化していき、不況脱出と国力発展の対象として中国制圧への欲求を深くしていく。そうした延長に満洲事変を起点とする日中15年戦争が開始され、最終的には日本の敗北で終焉するまで、日本の対中国侵攻計画と、その実行過程については史料論文を参照されたい。

果たして、以上の対中国侵攻計画と実行が可能であった理由が、次に大きな研究課題となる。その回答は簡単ではないが、制度的なレベルで言えば、明治国家を軍事国家へと変質せしめた統帥権独立制を俎上に挙げない訳にはいかない。そして、ドイツを模範として山県有朋と桂太郎という日本陸軍の中心的人物によって導入された統帥権独立制は、消極的意味においては、政治の軍事介入を排除する機能を期待した制度であり、積極的意味においては、軍事の政治介入を担保する制度として機能することになった。

すなわち、日本軍が政府が事実上自立·分立した機関として機能し、天皇にのみ責任を負う組織として明治憲法体制下で圧倒的な地位を占めたこと自体が、日本軍の政治化を制度面で担保するものとして、絶対的な役割を担ったのである。

そのような意味を有する統帥権独立制が導入された背景には、日本国家が将来的にも民主主義国家としてではなく、天皇制支配国家としての側面を全面化する可能性を最初が孕んでいたこと、また、そのような国家システムを採用することで民主主義的制度が充実したとしても、これを充分に機能不全に陥らせる権限を日本軍が保持することを意図したのである。この制度が機能すればするほど、日本の軍事化あるいは軍事化が進行していくのであった。当初、統帥権独立制は軍隊を政府から事実上独立させて、天皇に直属する体制を敷くことで天皇制の保持(国体護持)を目的としたものだが、それが大正末期から昭和初期における対中国侵攻過程において、軍事優先主義を貫徹させるための制度として自在に使用されていくことになったのである。

そして、そのことが日本独特の政治と軍事との関係(政軍関係)の成立へと繋がっていくのである。日本の政軍関係は、第3章で論じたように、必ずしも一様ではない。時代や政治状況とともに変容·変動している。しかしながら、全体を鳥瞰して言うならば、政軍関係においては基本的に軍事の政治への影響を否定できず、両者間にあっては対立と妥協が繰り返しはするが、最終的には軍部政権によって日英米戦争が開始され、対中国侵攻も強化されていった歴史を振り返れば、軍事(軍隊)の果たした役割の大きさは頗る大きい。

問題は何故、そうした日本の政軍関係が成立したのか、と言う点である。統帥権独立制が導入された点と、その点では全く重複する。一つには、日本の民主主義思想と制度設計の未成熟と日本民衆の貧困である。政治力では解決不可能に陥ったとされる日本の貧困を解決可能な手段としての侵略戦争を、政治指導層だけではなく、日本民衆の多くが最終的には支持していったことが、極めて重要な指摘しておかなければならない論点である。

結局、日本民主主義の未成熟、その制度的表現であった政党の腐敗、帝国議会の機能不全といった課題を克服できないまま、日本の官僚や財界などの国家指導層や民衆の支持を集め得たのは、他ならぬ軍部であった、と言う歴然たる事実である。軍部は、対中国侵攻計画を樹立し、世論を誘導しながら、日本全体を侵略行動へと駆り立てることに成功していく。それを担保したのが、統帥権独立制であり、軍事優先の政軍関係であった。

これらの問題全体を今後研究史的にも、如何に総括していくかが、引き続き我々研究者に課せられた課題となろう。


[1] ハンチントン『軍人と国家』上巻、原書房。

[2] 山県有朋「政戦両略概論」(大山梓編『山県有朋意見書』所収、原書房、1966年)。

[3] 参謀本部編『杉山メモ』下巻、241~242頁。

[4] 参謀本部編『杉山メモ』下巻。

[5] 同上。

[6] 前掲『軍人と国家』下巻、第三部参照。

[7] イギリスの歴史家ハラム(Hallam) は、『イギリス憲法史』において、「文権優越」の用語によってイギリスにおける文権と兵権の関係を論述している。藤田嗣雄『軍隊と自由』(河出書房、1953年刊) の「第二章 文権の優越」(200頁) を参照。

[8] 統帥権独立制度以前の兵政両権の構造については、拙稿「統帥権独立制の形成と戦争指導」(富田信男編『明治国家の苦悩と変容』北樹出版、1979年刊,所収) で詳しく論じた。

[9] 藤田嗣雄は,『軍隊と自由』において、帝国議会設置以前における統帥権独立制の目的に触れて、「統帥権の独立によって、絶対制的な天皇の地位の確立に役立せんとした」(六五頁) と述べ、統帥権独立の歴史的意義を明治絶対制との関連で位置づけようとしている。

[10] 水島朝穂『現代軍事法制の研究』(日本評論社、1995年)、196頁。

[11] 例えば,「統帥権独立制の形成と戦争指導」(富田信夫編『明治国家の苦悩と変容』(北樹出版、1979年、所収) および「竹橋事件」(『軍事民論』特集第13号· 1978年7月) など。

[12] 参謀本部設置の責任者であった桂太郎(当時、陸軍省第一局法則掛· 軍中佐) は「此年12月ニ参謀本部ハ天皇ノ直轄タラサルペカラストシ、純然タル軍事ヲ陣軍省ト引キ分ケ軍命令ハ直轄トナリ、軍事行政ハ政府ノ範囲ニ属スヘシトイフ自然ノ空気力起リシナリ、然レトモ来タ如何ナル方法、如何ナル組織トイフ研究ヲナシテ此ノ論ヲ立テラルニアラス、而シテ愈々参謀本部ヲ置キ、軍命令ハ天皇ノ直轄ト為ササルヘカラストイフ事トナリ」(徳富蘇峰編述『公爵桂太郎伝』乾巻、桂公爵記念事業会、一九一七年刊) とその自伝に記している。

[13] 小林前掲書、154頁、参照。

[14] 参謀本部設置の責任者であった桂太郎(当時、陸軍省第一局法則掛· 軍中佐) は、「此年(注· 1878年のこと) 12月ニ参謀本部ハ天皇ノ直轄タラサルペカラストシ、純然タル軍事ヲ陣軍省ト引キ分ケ軍命令ハ直轄トナリ、軍事行政ハ政府ノ範囲ニ属スヘシトイフ自然ノ空気力起リシナリ、然レトモ来タ如何ナル方法、如何ナル組織トイフ研究ヲナシテ此ノ論ヲ立テラルニアラス、而シテ愈々参謀本部ヲ置キ、軍命令ハ天皇ノ直轄ト為ササルヘカラストイフ事トナリ」(徳富蘇峰編述『公爵桂太郎伝』乾巻、桂公爵記念事業会、一九一七年刊) とその自伝に記している。

[15] 徳富蘇峰編述『公爵桂太郎伝』乾巻、桂公爵記念事業会、1917年。

[16] 大江志乃夫『戒厳令』(岩波書店· 新書、1978年)。

[17] 小林前掲書、69頁。

[18] 纐纈の政軍関係史研究に『近代日本政軍関係の研究』(岩波書店、2005年)、『文民統制』(岩波書店、2005年)、『田中義一 総力戦国家の先導者』(芙蓉書房出版、2009年) など。

[19] Samuel P.Huntington,The Soldier and The State:The Theory and Politics ofCivil-Military Relations,1957,p.3 (ハンチントン〔市川良一訳〕『軍人と国家』上巻、原書房、1988年、4頁)。

[20] 「明治国家における政軍関係(1) ―軍隊と国家の関係の一事例研究―」防衛庁防究研究所『防衛論集』第7巻第2号、1968年11月、2頁。

[21] 政軍関係に関する主要な諸研究には以下ものがある。長尾雄一郎「政軍関係とシビリアン· コントロール」(道下徳成他『現代戦略論―戦争は政治の手段か―』勁草書房、2000年)、同「政軍関係の過去と将来」(石津朋之編『戦争の本質と軍事力の諸相』彩流社、2004年)、前原透「「統帥権独立」理論の軍内での発展経過」(軍事史学会編『季刊軍事史学』第23巻第3号· 通巻第91号、1988年1号)、田上穣治「「満州」創建期における政軍関係―関東軍の政治的役割―」(亜細亜大学法学部『法学』第18巻第2号)、神谷不二「政軍関係論(civiliancontrol) に関する一考察」(慶應大学法学部『法学雑誌』第2号· 1963年12月20日号)、中島晋吾「戦後日本型政軍関係の形成」(軍事史学会編『季刊軍事史学』第34巻第1号· 通巻第133号、1998年6月号)、佐道明広「戦後日本安全保障研究の諸問題―政軍関係の視点から」(東京都立大学『法学会雑誌』1995年)、神田文人「満州事変」と日本の政軍関係―統帥権と天皇制―」(『敬愛大学国際紀要』第3号、1999年3月) などの研究があり、また戦前戦後の政軍関係をトータルに扱った特集として、日本政治学会編『日本近代化過程における政軍関係』(岩波書店、1990年3月) がある。また、単行本で「政軍関係」の名称を冠したものに、渡邊行男『宇垣一成―政軍関係の確執―』(中央公論社· 中公新書、1993年)、李ヒョンチル『軍部の昭和史(下) ―日本型政軍の絶頂と終焉―』(日本放送出版協会、1987七年)、日本政治学会編『近代化過程における政軍関係』(岩浪書店、1989年) などがある。また、近年の研究成果として、ラリー· ダイアモンド(Larry Diamond) とマーク· プラットナー(MarcF.Plattner) 編による、Civil-Military Relations and Democracy,(edited by Larry Diamond andMarc F.Plattner,The Johns Hopkins University Press,1996) が、中道寿一監訳により、『シビリアン· コントロールとデモクラシー』(刀水書房、2006年) と題して翻訳本が刊行された。同書の「第Ⅰ部 新しい時代の政軍関係」は最新の政軍関係理論を紹介している。

[22] これとほぼ同様の把握だが、長尾氏は、「統制はと呼ばれた軍内派閥が他の有力な軍内派閥(皇道派) を倒し、社会内の勢力と政治連合を構築したとき、日本政における覇権をにぎったのである」(長尾雄一郎「政軍関係の過去と将来」石津朋之編『戦争の本質と軍事力の諸相』彩流社、2004年、81頁) と指摘されている。

[23] この点について、今日、現代まで通底する総力戦認識というレベルで活発に議論されている。例えば、山之内靖他『総力戦と現代化』(柏書房、1995年) など。

[24] 大山梓編『山県有朋意見書』原書房、1966年、274頁。