日本侵华与中国抗战:有关史料及其研究
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日本侵华·政治外交篇

日本の対中国戦争指導体制と方針

〔日〕纐纈厚[1]

はじめに

本研究テーマの目的は、日本の対中国侵略戦争の近代日本国家(=明治国家)の軍隊創設過程及び軍国主義思想の定着過程のなかで、対中国侵略戦争が、一体如何なる戦争指導体制の下、如何なる軍事政策の変容のなかで強行されたのかを明治国家成立時期まで遡及して把握することにある。そこでは、第一に明治初期における日本の軍事体制と軍事政策を概観していく。その場合、より重要な史料については、一部引用し、それ以外の主要なものは、史料集において紹介していきたい。

第二に、明治から大正期にかけて、日本の対中国侵攻計画を樹立するうえで、最も大きな影響力を放った山県有朋の意見書の幾つかを引用紹介し、その位置を分析する。山県の意見書は、当該期明治政府及び日本軍部の基本的な姿勢が何処にあったかを具体的に示している点で、本テーマを追究かつ理解するうえでは不可欠な史料と言える。

第三には、1920年代後半から1940年代、さらには1945年8月15日の日本敗戦に至るまでの軍事政策や方針を「国防方針」などの史料を引用紹介しながら、日本の対中国侵略戦争指導体制とその方針が、一体如何なるものであったかを追究するものである。

本論は、「史料論文」と位置づけ、日本の戦争指導体制に関する論考は別に用意している。また、本論で引用紹介した史料のうち、いくつかは史料集で可能な限り紹介することに務めている。

本論を通して筆者の課題設定及び獲得されるべき結論を先取りにして記すならば、対中国戦争の起因は、明治国家成立と殆ど同時に創設された日本軍隊の展開過程に孕まれていると考える。換言すれば、それは状況論的に引き起こされた戦争発動ではなく、明治国家の国家構造自体が持つ内的な矛盾の発露としてあった。その意味からすれば、日本の対中国戦争の背景を分析することは、同時的に明治国家の構造分析にも結果すると考える。

一 日本中国侵攻計画の進行過程と日本の軍事政策~明治期から大正期まで~

近代日本軍事制度の創設

日本の対中国侵略戦争体制を追う前に、近代日本国家成立以降における軍事政策を概観しておきたい。以下、取り上げる各史料の位置を確認するためにも不可欠な作業と思われる。

日本の軍隊成立史を遡ると、先ずは1869(明治2)年7月8日の「職員令」制定に辿りつく。これにより兵部省が設置され、近代日本国家最初の軍事機構が誕生する。その兵部省は、1870(明治3)年5月に海軍創立に関する建議を行い、そこではロシアに対抗する海防に注意を払うことを主張した。

兵部省時代は、1869年から1972年までの短い期間であったが、兵部省時代は単一軍事省制であり、その長官である兵部卿は太政官の指揮下にあり、太政大臣が政治と軍事の両面にわたる最高の総合的指揮権を保有していた。兵部卿は固有の権限のみを保有していた。より具体的には、兵部卿は軍政·軍令にわたる全軍指揮権を保有し、指揮の統一性、軍事一元主義を採っていた。また、太政官制は太政官集権制を採っており、国政の中央機関である太政官が、実質的には政治と軍事にわたる一切の最高·最終·唯一の政策決定かつ命令機関であった。これによって政軍関係の統合は、基本的に確保されていたのである。

1871(明治4)年2月には、明治政府直轄の陸上部隊として御親兵を設置し、薩摩藩から歩兵4大隊、砲兵2隊、長州藩から歩兵3大隊、土佐藩から歩兵2大隊、騎兵2小隊、砲兵2隊の合計約1万人から軍隊を創立した。

続いて、同年12月24日には、兵部大輔山県有朋、兵部小輔川村純義、同西郷従道は連名で明治政府に「軍備意見書」を提出した。そこでロシアの東侵政策への備えが国防の急務とし、軍備増強を提議した。これは近代国家日本最初の軍事政策具申書であった。この時点で日本の軍隊は対外戦争用と、体内治安用との二つの役割を同時に担っていた。

1872(明治5)年1月4日、山県は「内国陸軍施設ヲ論ス」を建議し、これに基づき同年3月13日に「鎮台条例」となり、それは内外に二元主義を採用していた。これに伴い、全国を六軍管区に分け、第一軍管区を東京、第二軍管区を大阪、第三軍管区を名古屋、第四軍管区を大阪、第五軍管区を広島、第六軍管区を熊本とし、各鎮台とした。鎮台の編成は、その名称からも判る通り対国内軍備であった。これについて山県有朋の「軍備意見書」のなかでも、鎮台の目的について、「之レ内国ヲ鎮圧スルノ具二シテ外二備フルノ所以二非ス」としている。

しかし、1874(明治7)年7月の山県の「外征三策」及び「征藩意見」等には、清国及び特に台湾に対する侵攻計画あることを主張している。これは後に台湾出兵となって現実となる。

1877(明治10)年10月23日、明治国家の有力指導者であった西郷隆盛が一切の官職を辞し、故郷の鹿児島に帰り、そこから明治政府に反旗を翻すことになった。西南戦争である。この西南戦争は徴兵制によって訓練された西洋式軍隊が西郷隆盛率いる旧態依然の軍隊を敗北に追い込んだ点でも画期的な事件であったが、同時に西南戦争を転機に国内における鎮圧部隊としての役割が警察力に取って変わられることになった。これ以降、日本の軍隊は対外用としての性格と実力を蓄積する時期に入った。

1878(明治11)年、陸軍省参謀局が陸軍省から分離·独立し、名称を参謀本部と改め、天皇直属機関となり、軍政と軍令は相互に分離·独立することになった。さらに、1890(明治23)年11月には陸軍大臣の決定を経ない帷幄上奏制が採用されることになった。この統帥権独立制と帷幄上奏制こそ、日本軍部が政治·政府からの干渉を排除する制度的根拠を付与するものとなった。

しかし、その一方で統帥責任自体は、陸軍大臣、参謀総長、教育総監、海軍大臣、軍令部長の5人のポストに分散されることになり、言うならばこれは単一統帥不在体制とも称するものであった。従って、日本の戦争指導体制は、基本構造としての軍事責任分担体制を採用することになったのである。事実上、これら5人のポストに位置する軍事官僚たちが、制度上は対等な統帥権を保持することになった訳であるから、これは逆に統帥権現の分立状況と政治責任の不在状況という極めて深刻な戦争指導体制が成立したことになる。

そうした戦争指導体制の内実に関わる構造自体に孕まれた問題性は、特に満州事変(9·18事変)以降における重層的な軍部内対立となって表面化する。それは、陸軍対海軍の対立や陸軍内でも陸軍省と参謀本部の対立などの形で頻繁に生起する。

なお、ここで言う統帥権独立制とは、狭義では軍令の軍制からの独立、軍政·軍令分離制を意味するが、広義では軍事の政治からの独立を意味し、政軍分離制(=兵政分離制)を指す。日本における統帥権独立制は西南戦争(1877年)終了後、軍隊の役割期待が国内鎮圧用部隊から対外戦争用部隊と変化していく契機として、その翌年の1878(明治11)年12月5日の「参謀本部条例」の制定による参謀本部の設置及び同年12月13日の「監軍本部条例」の制定による監軍本部の設置から開始される。すなわち、参謀本部条例は軍令機関の軍政機関からの独立を意味し、監軍本部条例は、実施機関(=鎮台)に対する指揮系統の軍政機関からの独立を意味する。

1886(明治19)年3月18日、参謀本部はこれまで陸軍だけの軍令機関であったが、海軍省軍務局長の軍令機能をも吸収合併して、陸海両軍の統合的軍令機関となった。しかし、その後の陸海軍間の対立もあって、1889(明治22)年3月7日には、参謀本部は専ら陸軍だけの軍令機関となった。これ以後、参謀本部は大きな改正もなく、日本敗戦後の1945(昭和20)年10月15日に廃止されるまで存続した。

なお、監軍部は1885(明治18)年5月18日に監軍部と改称され、翌年の1886(明治19)年7月24日に廃止された。しかし、1887(明治20)年5月31日に監軍本部が復活し、教育行政機関となった。これ以後、監軍部は後に教育総監部と改称するが、参謀本部、陸軍省と並び、天皇直属機関となり、これを軍事三元主義と言う。

対中国侵攻計画の萌芽

その嚆矢となるものが、1880(明治13)年11月30日、参謀本部長の職にあった山県有朋が作成した「隣邦兵備略」を上奏した。これは主として清国の兵備を論じたもので、仮想敵国がロシアから清国に移行したことを示すものであった。山県は強大な清国の軍備に対抗して日本陸海軍の強化を提言したものであった。しかし、その作戦構想は基本的に守勢作戦の域を脱したものではなかった。その事を示す事例として、1881(明治14)年5月、大山巌陸軍卿、山県参謀本部長の連名によって「海岸防御建築費上申」の建議によって、明治14年度から10年間で総額245万円を投入して海岸防御策が講じられたのである。

1882(明治15)年7月、朝鮮京城事変が起こり、軍事当局に対し、対清国軍備の必要性を痛感させることになった。同年8月7日、山県は太政大臣三条実美に対して、「朝鮮事変二際スル対清方針意見」を提出しているが、その内容は従来になく対清強行路線を主張したものとなっている。ロシアに対しては消極的態度を維持してきた政府は、ここに来て清国への積極的姿勢を採るに至ったのは、西南戦争に勝利して、対内的軍備から対外的軍備に移行し始めたことを意味している。

それの具体策として、同年8月5日、参事院議長の職にあった山県有朋は、「陸海軍拡張二関スル財政上申」を提出した。さらに、山県は1883(明治16)年1月に、「対清意見書」を提出しているが、そのなかで第一に軍艦の建造を急ぐこと、第二に海岸砲台の建築、内海防御のため水雷を準備すること、第三に外交は平和的路線を維持しておくこととした。全体としては守勢作戦を貫徹し、同時に各個撃破の戦法を採用しようとした。

1888(明治21)年2月、西郷従道海軍大臣(伊藤博文内閣)は、海軍拡張案を閣議に提出した。第二期海軍拡張計画の目標は大小軍艦139隻、水雷艇202隻とされたが、一部が実現されただけで、1890(明治23)年には再び増艦案が提出された。海軍装備の拡充が強く志向されるなかで、陸上兵力に直接かかわる常備軍の編成や位置づけ自体の質的変化が軍事政策にも露見されるようになる。

すなわち、19世紀初頭以降の兵器の進歩と、これに伴う戦術の変化、特にアメリカ独立戦争、フランス革命戦争の経験は、戦争の性格を一変させることになる。例えば、戦闘方法については、従来の横隊戦術から縦隊戦術や散兵戦術へ、戦略としては機動を主とする会戦忌避の兵力温存主義から主力を決戦場に集中する会戦強要主義への転換がなされ、作戦目標も従来の土地の収奪から敵兵力の殲滅へと移行した。この国民軍による圧倒殲滅方式は、戦時における兵力を一層膨大なものとし、平時からこれらの兵力を維持確保することは事実上困難であった。従って、平時の常備軍は戦時に動員される国民的規模での大軍の根幹としての性格を備えるものであった。

ところで、近代日本国家の軍隊を制度的に支える徴兵制が1873(明治6)年に制定されたが、1883(明治16)年1月に従来の徴兵制の不備や課題を改めるために大改正が行われた。主な改正点は、第一に種々の免役規定や代人制度の全廃、官立中学校以上の在学生の徴集延期、中学校以上卒業者の一年志願制の導入、服役区分は現役3年、予備役4年(現役終了後)、後備役5年(予備役終了後)としたことである。

この改正の目的は、第一に国民皆兵の原則を徹底すること、戦時兵力増加のため、予備役幹部の養成を図り、これによって平時と戦時を通して飛躍的な軍備拡充を確保しようとしたことにあった。しかし、1889(明治22)年の徴兵実施の状況は、兵役義務負担者人口36万357人の内、わずか万8782人で、5%強に過ぎなかった。1888(明治21)年に衛戌条例が制定され、全国を衛戌地域に分かって分担区分を定め、応急の出動に備えた。この配置は対外戦争を目的としたものではなく、国内での派生が懸念された暴動や騒乱、あるいは内乱などへの備えに重点が置かれたものであった。

衛戌条例の制定と同時に1881年に創設されていた憲兵組織が大規模に拡張された。憲兵の強化は、国内鎮圧体制を憲兵警察に委ね、軍隊を対外戦争に備えさせるという分業体制が確定し、軍隊の本来的役割が確認されたと言える。軍隊の役割規定が確定されると同時に、軍隊を構成する個々の兵士を律する軍紀の確立が急がれていく。それは1887年の軍人訓戒、1982年の軍人勅諭に代表される。そこには天皇制軍隊と徴兵制度に孕まれた内的矛盾の表面化を防止することを目的としていた。1888(明治21)年に制定された「軍隊内務書」も簡約すれば兵士の自主性や個性を抹殺し、兵士をロボット化する姿勢で貫かれたものであった。

急速な軍備拡充

1895(明治28)年4月15日、陸軍大臣兼監軍山県有朋は、「軍備拡充意見書」を提出し、日清戦争後、清国の報復戦に備えると同時に、ロシアの清国及び朝鮮に対する侵攻計画への警戒を強める必要性を説いていた。この意見書に基づき海軍は、次の仮想敵国であるロシア艦隊に対抗すべき甲鉄戦艦6隻から編成される6·6艦隊の建造·整備がすすめられた。こうした軍備が整備されると同時に、1900(明治33)年8月20日、総理大臣山県有朋は「北進事変善後策」を閣議に提出した。これまでの対ロシア政策が、事なかれ主義であったのが、ここでは対ロシア戦争を決心するに至っている。この次点で軍事政策は守勢作戦から攻勢作戦に、換言すれば攻勢防御的軍備に転換することになったのである。

陸軍では第7師団から第12師団までの6個師団及び騎兵2旅団、砲兵2旅団を新設する計画が立てられた。これは大陸侵攻作戦計画が念頭に置かれたものであった。

1902(眼字37)年10月28日、桂太郎内閣の海軍大臣山本権兵衛は、「帝国国防論」を上奏した。これはロシア海軍に対抗するため海主陸従主義を強調したものであある。日清戦争から二里と戦争までの10年間の陸海軍装備の充実は、顕著なものであった。この間の軍備拡張で日本は初めて本格的な近代軍隊としての外観を内容とを整備することになったのである。その具体的な内訳は、13個師団(各歩兵2旅団、4個連隊、砲兵1個連隊基幹)、全兵力は歩兵156大体、騎兵54中隊、野戦歩兵106中隊、工兵38中隊である。

海軍は、1896(明治29)年から開始された第一期拡張計画で39隻建造、1896年から1905(明治38)年にかけて実施予定の第二期拡張計画で甲鉄戦艦4隻、一等巡洋艦6隻、他合計74隻(最終的には106隻)の建造計画を樹立するに至った。そのための経費は総額で2億1,310万円に達した。この総額は日清戦争の全戦費に匹敵する巨費であった。なお、第二期拡張計画は、日露関係の悪化に伴う日露戦争の可能性が濃厚となったことから、1902(明治35)年に前倒しでほぼ全部完了する。

日露戦争の戦争指導を果たした最高機関は元老会議であった。この時期、日清戦争以後の政治と軍事の功労者であるOBが政軍関係に大きな勢力と発言力を持つことになった。この場合、元老とは、山県有朋、伊藤博文、大山巌、井上馨、松方正義、西郷従道らである。当時における政軍関係両面にわたる戦争指導機関は、元老·内閣·統帥部の三大グループに分かれていた。

この元老統帥は、却って政軍関係を複雑化し、現役である内閣及び統帥部の活動を阻害し、不便ならしめた。この時期における政軍統合、政戦両略の一致は、伊藤博文と山県有朋の両元老の個人的協力関係で保持され、制度的に保障されたものであった。強力な一元的指導と統帥は不可能であった。それだけに政軍両略の一致が、この時期に早くも問題してきた。すなわち、1905(明治38)年3月23日、山県が提出した「政戦両略概論」は、以上のことから政軍両略一致を説いたものであった。

二 「山県有朋意見書」に見る戦争指導体制と戦争方針

近代日本の軍事政策

山県有朋は、現在の山口県萩市川島庄で下級武士の子として出生。幕末期には武士ではなく、農民や商人から編成された奇兵隊を率いて下関戦争(馬関戦争)でイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四国艦隊と交戦する体験を持つ。このとき山県は欧米の近代技術の圧倒的な力を知り、近代軍隊の創設を着想する。明治の時代に入り、1869(明治2)年6月、山県は欧米視察旅行に出発する。翌年の1870(明治3)年8月に帰国後、兵部少輔(陸軍次官に相当)に就任し、出身の長州藩に薩摩藩、土佐藩の藩兵を集めて約1万名から編成される御親兵を創設した。これが日本陸軍のルーツである。1871(明治4)7月に山県は兵部大輔(陸軍大臣に相当)に就任し、御親兵の力を背景に廃藩置県を断行し、さらに東京、東北、大阪、鎮西(九州)の四鎮台(後の師団に相当)を置いて軍事体制の整備を図った。

1871年12月24日、兵部大輔時代の山県有朋が政府に提出した文書が「軍備意見書」(『山県有朋意見書』(大山梓編、原書房、1966年刊)に収められている。

建軍当初の兵力について、明治4年12月、当時兵部大輔であった山縣·兵部少輔河村純義·兵部少輔西郷従道により建議された「軍備意見書」は以下の如く述べている。

天下現今ノ兵備ヲ論ンニ所謂親兵ハ其実聖体ヲ保護シ禁闕ヲ守衛スルニ過キス四管鎮台ノ兵総テ二十余大隊是内国ヲ鎮圧スルノ具ニシテ外ニ備フル所以ニ非ス海軍ノ如キハ数隻ノ戦艦モ未タ全ク完備ニ至ラス是レ亦果シテ外ニ備フルニ足ンヤ

要するに、この時点における兵力は国内治安維持をなし得る程度に過ぎなかった。しかしながら、その一方では、「謹ンテ案スルニ兵部即今ノ目途ハ内二在リ将来ノ目途ハ外二アリ然トモ詳カ二之ヲ論スレハ内外猶一ノ如シ」の箇所である。軍備を拡充する目的は将来においては「外ニアリ」と提起することで、軍拡の目的が中国を含めた外国への軍事力行使によって、国家発展の原動力とする位置づけが早々に主張されているのである。明治国家成立して、四年後に早くも侵略戦争に結果する軍隊の役割期待が表明されたのである。

因みに、徴兵令(1873年1月10日)が発布されて日本軍の総兵力は、この時点で陸軍が平時31,680名、戦時46,350名、海軍は軍艦が17隻(合計13,832トン)であった。陸軍は各鎮台に1個軍団(2個師団)に相当する35,000名の兵力を構想した。

以後、山県は次々と意見書を提出していくが、日清戦争(1894-95)から日露戦争(1904-05)にかけて提出した意見書の多くが、対清国(中国)の侵攻作戦に関わる内容であった。その主なものを列記すると以下の通りとなる。

「外征三策」(1874年7月)、「征蕃意見」(1874年7月4日)、「征蕃善後意見書」(1874年8月12日)、「進鄰邦兵備略」(1880年11月30日)、「朝鮮事変に際する対清方針意見」(1882年8月7日)、「対清意見書」(1883年6月5日)、「軍備意見書」(1893年10日)、「征清作戦に関する上奏」(1894年12月12日)、「軍備拡充意見書」(1895年4月15日)、「北清事変善後策」(1899年8月20日)、「対清政策所見」(1907年1月25日)、「対清政略概要」(1912年1月)、「対支政策意見書」(1918年1月)などである。

ここには日清戦争からシベリア干渉戦争(1918~25)まで、死去(1922年)するまで日本の対外侵略戦争の戦争指導機構の中枢に居た山県有朋の「意見書」は、日本の対中国侵略戦争決定過程及び対中国侵略戦争に関る日本指導部の意図や戦略を読み取るうえでは極めた重要な資料となる。以下、各資料について簡単に要約しておきたい。

こうした資料を資料編に可能な限り提供し、資料解説·分析を試みていく。本研究テーマに関連しては、特に第二章の「日本の対中国侵略戦争指導体制の萌芽期~明治期から大正期~(日本侵华战争指导体制的萌芽期~从明治时期到大正时期~)以降において詳しく論じていくが、本章はその前段的な役割を担うものである。

台湾問題の発生と清国警戒論

「外征三策」(1874年7月)は、同年に強行した台湾出兵との関連で注目すべき資料である。山県は所謂台湾出兵問題に絡み、対清国政策において極めて強行論を主張する。例えば、「臣(山県の事:筆者注)請フ三數萬ノ兵ヲ率イ江蘇ヲ蹂躙シ機二乗して直隷二上ラン」とする攻勢論を展開し、さらには、「我果シテ勢ヲ得ルコトアラハ直チ二天津ヲ突キ我城下ノ盟ヲ要セン」とまで言い切る。山県としては清国との交渉の可能性を探りつつ、最終的には天津まで攻勢をかける機会を窺っていた。

こうした対中国攻勢論は、以後数多展開される議論の嚆矢とも言うべき内容を含んでいる。現実の政治過程においても、これより先の同年5月22日には西郷隆盛の実弟である西郷従道が約3000名の兵力を率いて台湾に上陸し、台湾南部の牡丹社郷に侵攻し、現地人であったパイヤン族の人々を殺戮する。この年の12月3日に撤退が開始するまで、日本軍は現地に居座り続けたのである。

台湾出兵は近代日本国家が成立して僅か7年後に起きた日本の最初の対外侵略戦争であった。山県は、この台湾出兵の最中に「外征三策」を執筆しているが、要するに台湾出兵を契機にして日本と清国との間の懸案事項となっていた琉球(沖縄)問題に決着をつけ、近い将来台湾を支配し、東南アジア方面への侵攻拠点とし、合わせて清国への牽制を果たす思惑があったのである。山県が主張する清国本土への攻略方針は、その後も山県自身によって繰り返し主張される。その意味で本文書は、そうした方針の嚆矢と位置づけられるものである。

その点では、同じく台湾出兵の最中に執筆された「征蕃意見」(1874年7月4日)、「征蕃善後意見書」(1874年8月12日)も同質の主張がなされている。とりわけ、「征蕃意見」では、日本陸軍創設から間もない現状を踏まえつつ、清国と戦端を開いた場合を想定しつつ、軍備充実に尽力すべき覚悟あるところを開陳している。この意見書が書かれた5日後に閣議は台湾問題につき清国との開戦も辞さない決意で臨むことを確認している。台湾出兵は、山県の懸念する如く、戦力の未整備という状況に拘わらず、早くも清国との開戦決意の段階まで進んでいたのである。

その後、日本政府は、同年8月1日に清国との関係を改善するため大久保利通を全権弁理大臣として清国に派遣することを決定する。清国との交渉が開始されようとするなかで、政府部内では陸軍戦力の充実策や、高知県立志社総代の林有造らが、台湾出兵に関連して義勇兵編成願を高知県令岩崎長武に提出するなど、清国との開戦を求める世論や団体の動きが活発となっていた。

それで、「征蕃善後意見書」(1874年8月12日)は、清国との開戦を求める国内気運が高まるなかで執筆されたものである。8月1日の政府決定を踏まえて、山県は慎重さを示しながら、清国との開戦を事実上容認していた。清国との外交交渉を継続しつつ、その一方で開戦準備を行おうとする二段構えで日清関係は推移している。

「進鄰邦兵備略」(1880年11月30日)は、台湾出兵以後、清国との関係は一進一退を繰り返していた。国内では開戦要求の声も挙がっていたものの、政府内には慎重論を説く有力者もあって、当座は清国との交渉如何にかかっていた。この間にも山県は清国軍事力の実態と軍制改革への関心を、この意見書において詳しく述べている。山県としては清国の潜在能力への注意を充分にし、これへの日本の対応を怠りなくするよう説いている。

ここでは要するにロシアへの警戒感が相対的に低位に見積もられ、清国への警戒感が強まっているのである。そこでは、「此書ハ隣邦現今ノ兵備ヲ摘載スル者ナリ、其レ彼ヲ知リ、己ヲ知ルハ兵法ノ要訣、今隣邦ト交戦スルノ素意二非スト雖モ、此ト合従シ、若クハ厳二申立ヲ守ル」と記され、明らかに対清国戦争への準備と覚悟とを説いた。

日清戦争への道程

1880年代に入ると、隣国の李氏朝鮮をめぐる清国と日本との関係が一段と悪化する様相を呈するに至った。例えば、1882年7月23日には朝鮮の京城(現在のソウル)で朝鮮兵の反乱事件が発生し、日本人の軍事教官福本少尉らが殺害された。反乱兵は日本公使館をも襲撃するに及んだ(壬午事変)。これに対して、日本政府は同月31日に仁川と釜山に軍艦の派遣を決定する。この事件に絡み、清国は属邦保護のため朝鮮出兵を日本政府に通告してきた。

この間、日本政府は朝鮮国王との交渉を開始し、壬午事変関係者の処分や謝罪を要求するとともに日本との間に修好条規の締結を約束させた。10月19日、朝鮮全権大臣兼修信使朴泳孝が来日し、日朝修好条規の批准書交換が行われた。事変の機会に日本政府が一気呵成に朝鮮半島への覇権を握ろうとすることに清国は態度を硬化させ、日清間では一触触発の緊張関係に入っていく。

「朝鮮事変に際する対清方針意見」(1882年8月7日)は、朝鮮をめぐる日清間の対立の開始と展開の最中に提出されたものである。ここで山県は、ここで今回の事案に関連して清国は、朝鮮が自らの属国であるがゆえに日本の干渉を拒否するか、あるいは日朝間に立って仲裁役を演じるか、それとも中立かつ公平な立場を堅持して朝鮮政府に日本への謝罪を勧告するなど平穏な姿勢をとるか、のいずれかとした。山県としては、清国が如何なる姿勢を採るも、これに十分に対応する方針を明示する。そして、何れの姿勢を見せたとしても、日本は積極的に攻勢をかけるべきであるとし、場合によっては清国との間に先端を開く覚悟が必要である旨を記した。

同様に、「対清意見書」(1883年6月5日)にしても、一段と清国への警戒心を強めた表現が目立つようになる。例えば、「彼(清国のこと:筆者注)レノ我國二對シ不平ヲ積ムコト蓋シ一日二アラス彼レ武備充實内治稍修マルノ機二乗シ或ハ起テ東洋二強梁シ」と記して、清国が日本の対朝鮮政策で示した攻勢ぶりに相当の不平が蓄積され、日本への対抗意識が高まっていることに警戒心を表明する。そこから、日本の軍備拡充政策の断行が急務だと訴える。

山県が総理大臣時代の1890(明治23)年3月に公表した「外交政略論」の一部を次に引用しておこう。

国家独立自衛の道二つあり 一に曰く主権線を守禦し他人の侵害を容れす 二に曰く利益線を防護し自己の形勝を失はす 何をか主権線と謂ふ彊土是なり 何をか利益線といふ隣国接触の勢我か主権線の安危と緊しく相関係するの区域是なり 凡国として主権線を有たさるはなく又均しく其利益線を有たさるはなし 而して外交及兵備の要訣は専ら此の二線の基礎に存立する者なり 方今列国の際に立て国家の独立を維持せんとせは独り主権線を守禦するを以て足れりとせす 必や進て利益線を防護し常に形勝の位置に立たさる可らす 利益線を防護するの道如何 各国の為す所苟も我に不利なる者あるときは我れ責任を帯ひて之を排除し已むを得さるときは強力を用ゐて我か意志を達するに在り 蓋利益線を防護すること能はさるの国は其主権線を退守せんとするも亦他国の援助に倚り纔かに侵害を免るゝ者にして仍完全なる独立の邦国たることを望む可からさるなり[中略]

我邦利益線の焦点は実に朝鮮に在り 西伯利鉄道は已に中央亜細亜に進み其数年 を出すして竣功するに豈我か利益線に向き最も急劇なる刺衝を感する者に非らす[中略]

上に陳ふる所の利益線を保護するの外政に対し必要欠く可らさるものは第一兵備第二 教育是なり[中略]

更に終に臨み一言以て吾人の注意を表明すへきものあり 今果して主権線を守るに止

らす進て利益線を保ち以て国の独立を完全ならしめんとせは其事固より一朝空言の能くすへきに非す 必や将来二十数年を期し寸を積み尺を累ね以て成績を見るの地に達せさる可らす 而して此二十数年間は即ち吾人嘗胆坐薪の日なり 今にして廟議定まる所あらは後人必吾人の志を継く者あらん 此れ亦之を緩慢に付すへからさる所以なり[2]

有名な利益線の概念の導入により、日本の大陸侵攻を正当化づける以後盛んに使用されることになる、ある種の侵略イデオロギーである。ここでいう利益線を確保するためにも、山県としては強大な軍事力の整備が不可欠であったのである。

日清戦争開始以後

朝鮮半島の支配権をめぐる日本と清国との対立は、結局軍事衝突にまで発展する。その経緯については省略するが、山県は日清戦争開始の年に(8)「征清作戦に関する上奏」(1894年12月12日)を行っている。上奏が行われた1894(明治27)年12月12日の直前に日本軍(第1軍)が海城を占拠(12月13日)し、同月20日には清国の張影蔭と邵友濂が講和全権に任命され、アメリカ公使を介して日本との講和に動き出していた。日清間の戦闘は日本に有利に推移しており、山県は同意見書においても、「山海関ヲ衝クノ利益二及ハスト雖トモ今日ノ事情之二依ル非サレハ以テ先制ノ機ヲ占ムル二足ラサルナリ」と記して、一気に攻勢をかけ、今後における対清政策の姿勢を明らかにしていた。

清国との戦争を有利に進め、戦勝を確実に、さらに将来において清国を制圧する方向で軍備拡充策を積極的に説いたのが(9)「軍備拡充意見書」(1895年4月15日)である。1895年に入り、日清戦争は激しい戦争の結果、日本の優位下、3月20日に日清間で講和会議が下関で開始される、その結果、4月17日に日清講和条約が下関で調印される。

条約調印二日前に上奏された同文書には、「従来ノ軍備ハ専ラ主権線ノ維持ヲ以テ本トシタルモノナリ然レトモ今回ノ戦勝ヲシテ其ノ効ヲ空フセシメス進ンテ東洋ノ盟主トナラント欲セハ必スヤ又利益線ノ開張ヲ計ラサル可カラサルナリ然リ而シテ現在ノ兵備ハ以テ今後ノ主権線ヲ維持スルニ足ラス」と記した。すなわち、山県は中国大陸に日本の利益線を押し上げていくためには、一層の軍備拡充が不可欠としたのである。「利益線ノ開張」こそ、日清戦争以後、日本が対中国侵略戦争を推し進めていく上での、一貫したスローガンとなっていくのであり、その点で日清戦争の勝利とその後の国家政策としての軍備拡充が固定化される契機となったと言えよう。

そうした対清国への攻勢は以後一貫して継続されることになったが、(10)「北清事変善後策」(1900年8月20日)は、同年に起きた、所謂義和団事件の処理に絡め、当時内閣総理大臣の地位にあった山県が提出した意見書である。そこには、赤裸々に中国侵攻意思が明示されている。例えば、「天津ハ北京ノ咽喉ヲ扼シ山東及滿洲ノ中央二位シ實二北清要衝ノ地タルノミナラス亦久ク北部通商ノ衝トシテ各國共同ノ利害二關スルコト頗ル大ナリ」と喝破していた。天津を抑え、北京を抑えることで、将来における山東及び満州地域への侵攻を大胆に企画していたのである。これから4年後に生起する日露戦争も、ここで言う山県の対中国侵攻計画の一環であったのである。

その日露戦争が1904年から開始され、戦力を使い果たした日本はロシアの国内状勢の悪化を主たる原因として、辛くも「勝利」を手に入れる結果となった。その後、日本政府及び日本軍部は、ロシアとの再戦の可能性に備え、さらなる軍備拡充政策に邁進する、そうしたなかで、日本にとって、対清国政策は従来通り、最重要の外交上かつ軍事上の最優先課題であり続けた。

「対清政策所見」(1907年1月25日)において、日露戦争中における清国の中立的立場を可としつつ、当分の間は清国との関係改善の方途を探る姿勢が必要しながら、「清國とは滿洲に於て遂に調和すへからさる利害の衝突を惹起し或は干戈に訴へて其の解決を求めさる可らさるに至るやも亦未た知る可らさるものありと雖とも而かも是れ萬已むを得さるの場合に於て初めて之れを断すへきのみ」と遠回しの表現ながら、清国との再戦の可能性を否定していない。

1910年代に入り、日本の対中国への侵攻計画は、より具体性を帯びてくる。日露戦争以後、日本は南満州鉄道により中国東北部に巨大な利権を獲得する方向に動くが、辛亥革命(1911年)により清国が崩壊後に提出された「對清政略概要」(1912年1月)では、「滿朝蒙塵ノ時期モ亦切迫シアルモノノ如シ之ヲ救濟スル政策モ予メ講究セサル可ラス之ヲ要スル二南滿洲ハ帝國政府ノ威壓力二依リ内外人を安堵ナラシム二アル而已」と言い切り、日本が軍事力の発動により満蒙支配に乗り出すことの必要性を強く主張していた。

そのなかで、「對支政策意見書」(1918年1月)及び「對支意見書」は、第一次世大戦後における日本の対中国政策の一定の変化を読み取ることが可能である。第一世界大戦の期間中に主戦場であったヨーロッパから遠隔地にあったアジア地域において、日本はイギリスからの参戦要請を受諾するという形式を採って、中国山東省の青島のドイツ租借地を襲い、ここに新たな利権を獲得する。山県は、こうした日本の対中国姿勢への反発が中国及び欧米諸列強から生起する可能性を読み取り、表向き中国の友好関係への選択肢を提案する。

そうした文面は、「對支意見書」においも明らかにされている。例えば、「我政府ハ常二亜細亜ヲシテ誘導向上ノ地位二立サル可ラス而シテ常二支那二向ツテハ赤心ト温情ト敬愛トヲ以テシ一面常二威信ヲ維持シテ之二萬一約諾二背馳スルノ擧動アラハ支那政府ヲシテ交更迭セシムルノ方略ト勢力ハ常二把持セサル可ラス」の件である。この「支那政府ヲシテ交更迭セシムル」力が日本に存在することする極めて強面な対中国姿勢が赤裸々に語られている。

以上、明治初期から日清戦争と日露戦争を挟んで第一次世界大戦終了時までの日本政府を一貫して代表してきた山県有朋の意見書に示された対支那(対中国)姿勢を逐次追ってきたが、ここまでの戦争指導体制の中核を担った日本陸軍と山県有朋の対中国姿勢は、基本的に対中国侵攻計画の練り上げと戦争発動を通して、朝鮮半島を橋頭保とする中国大陸での覇権掌握計画と実行である。

その勢いは日清戦争から日露戦争に続く第一次世界大戦での参戦と勝利国の陣形に与したこともあって、1910年代後半期には、一層拍車がかかる。勿論、対中国姿勢に関しては、ロシアやイギリス、アメリカ、フランスなどの欧米諸列強との外交上の問題や矛盾を常に含みながら、慎重な姿勢が一時的には融和的あるいは平和的な姿勢が前面に出る事態も見られた。しかしながら、山県有朋に代表される日本の戦争指導体制が日清·日露戦争及び第一次世界体制を経由するなから強化され、また軍出身者による組閣が相次いで行われたこともあって、対中国姿勢スタンスは本質には不変であったと言って良い。それで次章においては、日露戦争以後における日本の戦争指導体制の内容について「帝国国防方針」や「統帥綱領」の内容分析を通して概観しておきたい。

三 日本の対中国侵攻戦争指導方針の変容

「帝国国防方針」の位置

1889(明治22)年2月11日に制定発布された後、日本の戦争指導体制を支える背景となったのは、日露戦争後の1907(明治40)年を初年度とする「帝国国防方針」「国防に要する兵力」「帝国軍の用兵要領」である(以下、「帝国国防方針」と一括する)。1907年4月4日に制定された「帝国国防方針」は、その後、1918(大正7)年6月29日、1913(大正12)年2月28日、1936(昭和11)年と三次にわたる改正が行われた。

国防方針には国家目標や国家戦略、国防目的や国防方針、仮想敵国と情勢判断、所要軍備の程度などが記された。また、所要兵力には、具体的に必要な軍備として師団数や軍艦隻数など数値目標が設定された。さらに、用兵要領には日本の軍事ドクトリン、仮想敵国と戦争に至った場合の作戦計画が記されていた。

三次にわたる改定が実施されたが内容に大差はない。但し、仮想敵国が最初はロシア·アメリカ·中国の順から、二回目の改定でアメリカ·中国·ソ連、三回目の改定でアメリカ·ソ連·イギリス·中国の順に変わった。対中国という点で言えば、中国が第一の仮想敵国と位置付けられたことは一度もない。それは、ロシアついでアメリカが日本と比較して、あらゆる目において優位に立っているという認識が軍事官僚に固着しており、逆に中国は日清戦争で勝利した国であり、総合国力や国情から鑑みても要注意対象国ではあっても、充分に対抗可能であり、さらには完全に打倒可能な国家だとする認識が存在したからではないかと思われる。

そのことは最初の「帝国国防方針」(1907年2月1日上奏)においても明確である。すなわち、そこでは「満州」及び朝鮮半島で確保した利権保守が重要な国家目標であり国家戦略とする文言が記されているのである。それで日本陸軍は、そうした日本の国家目標や国家戦略の実現を阻もうとする国家には攻勢を採ることとしている。先ず、第一項から第三項まで引用しておこう。

一 帝国ノ政策ハ明治ノ初メニ定メラレタル開国進取ノ国是二則リ実行セラレ曾テ其ノ軌道ヲ脱シタル事無キハ論ヲ俟タサル所二シテ今後ハ益々此ノ国是二従ヒ国権ノ拡張ヲ謀リ国利民福ノ増進ヲ勉メサルへカラス

国権ヲ拡張シ国利民福ヲ増進セント欲セハ世界ノ多方面二向テ経営セサル可カラスト雖就中明治三十七八編戦役二於テ幾万ノ生霊及巨万ノ財貨ヲ抛テ満洲及韓国二扶植シタル利権ト亜細亜南方並太平洋ノ彼岸二皇張シツツアル民力ノ発展トヲ擁護するは勿論益々之ヲ拡張スルヲ以テ帝国施政ノ大方針ト為ササルへカラス

果タシテ然ラハ帝国軍ノ国防ハ此国是二基ク所ノ政策二伴フテ規画セラレサルへカラス換言スレハ我国国権ヲ侵害セントスル国二対シ少クモ東亜二在リテハ攻勢ヲ取リ得ル如クスルヲ要ス

二 我帝国ハ四面環ラス二海ヲ以テスト雖国是及政策上其国防ハ固ヨリ海陸ノ一方二偏スルヲ得ス況ンヤ海ヲ隔テテ満洲及韓国二利権ヲ扶植シタル今日二於テオヤ故二一旦有事ノ日二当リテハ島帝国内二於テ作戦スルカ如キ国防ヲ取ルヲ許サス必スヤ海外二於テ攻勢ヲ取ル二アラサレハ我国防ヲ全フスル能ハス

三 帝国軍事上ノ歴史ヲ閲スル二徃昔ヨリ今日二至ルマテ退嬰ノ主義を取リタルハ徳川時代ノミ其他ハ皆進取的ナラサルハナシ乃チ近ク明治二十七八年、同三十三年及同三十七八年戦役二於テハ悉ク攻勢ヲ取リテ以テ戦局ノ大捷ヲ占メ得タリ此歴史ハ日本人ノ性格ヲ明二表証スルモノ二シテ他日再ヒ干戈ヲ動カスノ已ムヲ得サル二当リテモ亦此性格ヲ益々発揮スル如クセサルへカラス蓋シ国民ノ性格二背ク戦法ハ古来其良成績ヲ得タルコト稀ナリ

ここに明らかなように、「国権ノ拡張」には軍備拡充が不可欠であること、その軍事力によって大陸に覇権を求めることを国家目標とすること、日露戦争における人的物的犠牲の上に築かれた利権は絶対確保していく方針が基調となる文面である。既述の如く、この大方針は、以後の「帝国国防方針」に貫徹されることになる。

このなかで清国に関する記述が第4項目に登場する。同項は将来にわたり日本と対峙する諸国を俎上に挙げ、日本との将来関係を予測している。すなわち、近い将来の最大の敵国はロシアであり、アメリカとは友好関係を当分は継続するものの、遠い将来においては衝突する可能性は高いとする。次いで、清国に関しては、「清国ハ満韓二於ケル我利権二対シ利害ノ関係ヲ有スルコト大ナリト雖モ清一国ヲ以テ単独我ト戦ヲ交ユヘシトハ殆ント想像シ得サル所ナリ。如何トナレハ清国ハ殆ント全ク海軍ヲ有セス。其陸軍ノ如キモ亦名アリテ実ナケレハナリ」としている。つまり、この時点では、清国は仮想敵国の対象外と認識されていたのである。

ところが、1910(明治43)年12月、陸軍省内では「対清策案」が起草されているが、それによると、既述の「帝国国防方針」(1907年)で仮想敵国から除外されていた清国に対する作戦方針が追加されている。中国における国内紛争と共和政体への動きを含め、清国(後中国)の関係悪化が予測されるに至り、警戒感が前面に打ち出されるようになったのである。このとき、日本の戦争指導方針の基本は山が有朋に代表される日露同盟論のように対露接近路線であり、日露関係の改善とその同盟関係を背景とする英米勢力との拮抗を図ろうとするものであった。そのことは、すでに1916(大正5)年7月における第四次日露協商の締結に示されてもいた。

確かに、この日露協商の延長としての日露同盟路線は、1917年11月のロシア革命によるロシアの消滅により立ち消えとなり、石井·ランシング協定と日英同盟の継続による対英米協調路線が再構築されることになった。日本外交の軸足がロシアから英米にシフトしたとしても、不変であったのは日本の対中国姿勢であった。

「対清作戦計画」と対中国政策検討機関

「帝国国防方針」において、清国はどのように位置づけられていたのか。1907年段階において、清国一国に対応する作戦計画は策定されなかったが、1911年の辛亥革命により清国が崩壊し、新しく共和政体が樹立されると、日本政府と陸軍は警戒感を強めていく。その結果、1911(明治44)年5月13日に以下の「対清作戦計画」を策定するに至った。

計画ノ要領

清国ノ国勢二徴シ正当二之ヲ判断スルハ独立シテ我帝国ト戦争ヲ敢テスルハ殆ト有リ得ヘカラサルコト二属ス然レトモ飜テ其ノ国情ヲ察スレハ外ハ列強ノ窺窬日二熾ン二内人心ノ乖離益々甚シク朝臣無能二シテ為政統一ヲ欠キ加フル二排外、革命ノ思想ハ所在二弥蔓シ而モ各種ノ事業重要ノ地点外国ノ掌裡二在ルモノ多キノミナラス財政挙ラス借款増ス此等ノ趨勢ハ到底永ク清国寧静ヲ維持シ難シ而シテ一旦禍乱ノ端ヲ開カハ上二鎮圧ノ力ナク下二節制ノ心ナク盪々弥蔓シテ全国ノ騒乱トナリ列強ハ各々其ノ居留民ヲ保護シ其ノ利権ヲ安固ナラシメ且此ノ機二乗シテ更二潤得ヲ拡張セントシ遂二複雑ナル外交問題ノ発生ヲ見ル二至ラン仮令列国ハ大二自制スル所アリトスルモ我ハ清国殊二満洲二於テ緊密ノ関係ヲ有シ少クモ一部ノ兵力ヲ動カスヲ要シ為二延テ日清間干戈相見ルノ止ヲ得サル二至ルヲ期シ難シ此等ノ形勢二諸シ能ク我優秀ナル利権ヲ保持セン二ハ咄嗟之二応シ得ルノ準備ナカルへカラス

欧米列強ノ清国二対スル利害ノ関係ハ由来我政策ト枘鑿相内容レサルモノ多ク随テ列強ハ苟モ好機アラハ我勢力ヲ芟除セントスル二躊躇セサルヘシ而シテ之ヲ実行センカ為二ハ清国ヲ籠絡使嗾浙シテ之ト共二我二当ルヲ利トス況ンヤ清国兵制ノ漸ク新ナルノ外観アル二於テヲヤシ然レトモ当今陸軍ノ兵力ヲ以テ清国ヲ援ケ和クハ之ト協同シテ我二対シ得ルハ独リ露国アルノミ其ノ他ノ強国二在リテハ遂二我陸軍作戦ノ実施二影響ヲ与へ得ヘキ情態二アラス我ハ此ノ間二於テ清国二打撃ヲ加フルヲ得ヘシ依テ茲二ハ単二清国二対スルモノト露清同盟二対スル作戦トヲ策定セントス而シテ我国現制ノ兵力ヲ以テ露清同盟軍二対スル作戦ヲ実施スルハ国際ノ関係、露国ノ情況我二有利ナル場合二限ル

文書中にも示されているように、この時点で日本政府及び日本軍が最も警戒したのが「露清同盟」である。日本政府としては、日露戦争後、ロシアが中国東北部における利権回復を目指し、日露再戦を志向する可能性も充分にあるとしつつ、同時にロシアの国内情勢やイギリス、アメリカなどの対露姿勢から総合的に判断した場合、「露清同盟」の可能性は決して大きくないとの判断をも以ていたようである。それで、同文書は続いて「計画ノ概要」の項において、「清国ノミニ対スル場合」としてとして、以下の内容を記している。

方針

南満洲ノ占領ヲ確実二スルト共二北京ヲ攻略シ且別二浙江、福建ノ領有ヲ企画ス

兵力

満洲方面 野戦師団四箇、騎兵旅団一箇、独立野戦重砲兵連隊一箇ヲ骨幹トシテ編成セル一軍及び間島二策動スへキ独立野戦師団

北京方面 野戦師団五箇、騎兵旅団二箇、野砲兵旅団一箇、重砲兵旅団一箇ヲ骨幹トシテ編成セル一軍

浙江方面 野戦師団三箇、重砲兵大隊一箇ヲ骨幹トシテ編成セル一軍

福建方面 野戦師団一箇

要するに、日本軍は中国の東北、北京、上海を中心として、そこに利権拡張のために強大な軍事力を構築して攻勢に出る方針を、この時点で明快に記していたのである。1914(大正3)年にヨーロッパを主戦場とする第一次世界大戦が開始されると、日本の参戦を要請しつつ、一定の歯止めをかけようとしたイギリスの思惑を越えて、同年8月23日に日本はドイツに宣戦布告し、11月7日に日本陸軍は膠洲湾と山東半島の青島のドイツの根拠地を占拠した。日本海軍も西太平洋に位置するドイツ領の南洋諸島を占拠した。

1914年6月23日、内閣総理大臣の直属軍事審議機関として防務会議が設置された。構成員は、首相、外相、蔵相、陸相、海相、参謀総長、軍令部長の7名から構成された。これは最高戦争指導機関が大本営から内閣に移動したことを意味しており、重大な転換であった。なお、この防務会議は大隈、寺内、原、高橋の各内閣にわたり存続し、その間にシベリア干渉戦争、ワシントン軍縮会議などを処理に、1922(大正11)年9月に廃止された。さらに大隈重信内閣は、1915(大正4)年1月に中国の袁世凱政府との間で対華21カ条約の交渉を開始し、同年5月25日には調印を行った。その内容は、中国の主権を著しく侵すものであっただけに、中国民衆は国権擁護の立場から排日運動に乗り出した。

また、1917(大正6)年6月5日、天皇直属審議機関として宮中に外交調査会が設置された。外交調査会は、大正政変の発端となった軍備拡張と財政難との矛盾、特に対中国政策をめぐる政府と軍部との不統一を解消しようとするものであった。外交調査会は首相を委員長とし、外相、内相、陸相、海相、枢密院顧問、貴族院議員(2名)、衆議院議員(2名)から構成された。同会は、もはや大本営のような軍令中心機関では有効な対処を為し得ないような戦争様相への変化に対応する措置であった。

つまり、国家総力戦の戦争形態にあっては、戦争が政治性を帯び、平戦時の区別が付け難くなってきたことを端的に示すものであった。ところが、昭和の時代に入り、防務会議廃止後5年半余にして、第一次山東出兵(1927年5月)、第二次山東出兵(1928年4月)、満州事変(1931年9月)が相次いで生起し、これらの事態のなかでは参謀本部を中心とした統帥権独立制を前面に打ち出した戦争指導が強行されたのである。

遡及すれば、原敬内閣時にシベリア出兵問題に処理に当たり、原内閣の戦争指導方針に対し、参謀本部は統帥権独立制を盾にとって決定に従わない時があった。統帥権独立制を盾にとった軍部の独走は、言わばこの時から開始されたと言って良い。それゆえ、原首相は参謀本部改革を真剣に思考するところとなり、高橋是清蔵相は参謀本部廃止論まで主張するに至ったのである。

日本政府及び軍部は、そうした中国の排日運動を踏まえて、1916(大正5)年8月に裁可された1917(大正6)年度の「作戦計画」から、新たに「対支(対中国)作戦計画を年度作戦計画に記載することにした。この結果、1918(大正7)年5月には参謀総長と海軍軍令部長が新しく国防方針などを立案し、6月29日に大正天皇の裁可を得ることになった。新たな「帝国国防方針」では、仮想敵国をロシア(ソ連)、アメリカ、中国の順番とした。

自給自足論と対中国姿勢

1918年改訂の「帝国国防方針」は、第一次世界大戦で明らかとなった総力戦という戦争形態の変化を読み取ったうえで、総力戦体制構築への展望が記された。大戦が終了した年の文書であることもあって、より具体的な総力戦体制案が明示された訳ではなかったが、国家戦略のレベルに総力戦体至るまでが記載されたことの意味は小さくなかった。

この改定に至るまで、「帝国国防方針」の内容に重大な影響を与えるような文書が特に陸軍省内で相次ぎ作成された。例えば、第一次世界大戦中に、日本陸海軍は臨時軍事調査委員会と称する委員会を設置し、参戦武官を多数ヨーロッパの戦場に派遣し、戦争状況を参戦諸国の動員体制を含め多方面からする情報収集と分析を盛んに行った[3]

そうした文書のなかで、田中義一参謀次長が参謀本部総務部第一課の森五六大尉に命じて起草させた「全国動員計画必要ノ議」(1917年9月)には、「彼ノ日露戦役二於テ全国力ヲ賭シテ纔二勝利ノ一端ヲ収メ得タルカ如キハ既二過去ノ歴史二属シ以テ将来ノ準縄トナス二足ラサルナリ」[4]と記され、日露戦争の教訓を踏まえて起草された1907年の「帝国国防方針」が総力戦の時代には不適合とする判断を示していた。それに続き、「全国動員計画必要ノ議」は、「我帝国国防方針ノ整備は神速ナル決戦を主義ト為シ且戦争持久二至ルモ我耐久性ヲ完全ナラシムルノ方策二出テサルへカラス」ことを強調している。

すなわち、総力戦という新たな戦争形態に適合する国家戦略や国防方針としては、短期決戦思想と総力戦思想の両方を加味した日本独自の内容を追及することが必要としたのである。換言すれば、速戦即決主義を貫徹するための常備兵力の確保と、長期持久戦を貫徹可能な自給自足体制の確立を説いたことになる。この相矛盾するか、相拮抗するかの思想や方針が同時的に解決することが求められてくる。

当然ながら第一世界大戦後における国際的なレベルで拡がっていた軍縮の世論のなかで、日本においても軍縮を求める世論が喚起され、その後の国家経済が疲弊する過程で、軍縮は極めて切実な政策方針として国内では大きな課題とされた。一方、自給自足国家構築への展望にしても、そう容易な課題ではなかった。ただ、この自給自足国家への展望に絡めて、資源と市場の対象地としての中国の位置が、この限りにおいても益々重視されるところとなり、それが中国侵略への衝動を高めていったことと関連すれば、当該期における日本の自給自足国家論は、侵略思想を正当化したという意味においても重大な問題であった。

例えば、アジア太平洋戦争の終盤に首相に就任する小磯国昭は少佐時代に「帝国国防資源」(1917年8月)[5]を参謀本部兵要地誌班のメンバーとして作成したが、そこでは日本が自給自足国家として欧米の資本·資源·技術に依存せず、文字通り自立した帝国主義国家となるためには中国の資源と市場の獲得が不可欠とする議論を展開する。

同書に示された基本認識は、「戦争ノ勝敗ハ宛然経済戦ノ結果二依リテ決セラレントスルノ観アラシム···戦時経済独立ノ必要ヲ叫フ者多シ寔二軍国ノ慶事ナラサランャ」として、総力戦時代における戦争の勝敗は経済戦に依って決定されるとした。そして、問題は日本が自給自足国家として発展し、文字通り自立した帝国主義国家へと脱皮するためには、中国との経済的関係強化が必須とする。すなわち、日本の貿易品の実態について、「帝国ハ一に生糸ノ多クハ之ヲ支那二仰き支那鉱山ノ開発ト共二支那ノ供給力二負フ所将来益々多カラントス加之綿花肥料及羊毛等カ戦時絶対必需品二非スト雖モ其補給ヲ切望スルャ勿論二シテ···我経済上二於ケル支那ノ価値実二大ナリト謂ハサルへカラス」と結論づける。

自給自足国家論への展望は、日本陸軍に限らず、日本海軍にも同時期以降から強く意識され始める。その事例として、海軍軍令部第三班の八角三郎中佐起草による「我国軍備ト支那トノ関係」[6]がある。そこでは、「外敵二対シテハ最小限度二於テ東海ノ交通ヲ安固二シ支那ノ資源二倚リ対戦ノ覚悟ナカルへカラス···対支問題ハ直接我海軍二影響ヲ及ホスコト彼ノ米国海軍力ノ消長ト同一結果ヲ来スモノ」としている。

要するに経済資源の確保が、特に第一次世界大戦後における対中国政策の中心的な課題となっていくのである。問題は中国の経済資源の確保を、あくまで平和理のうちに中国の主権と民生を尊重しながら、あくまで外交手段と相互互恵の精神に則った経済交流の延長上に実現していくのか、あるいは軍事力を用いた強制的かつ侵略的な手法により、これを獲得していくのかについて日中関係が決まっていくのである。そして、歴史は、日本政府及び陸海軍部は最終的に後者を選択していったのである。

こうした日本陸海軍部の自給自足国家論を理由とする中国侵略方針は、軍部だけのものではなかった。例えば、寺内正毅内閣(1916年10月~1919年9月)に中国の段祺瑞政権に対する一連の借款供与(所謂西原借款)を取りきめ、中国侵略の経済的地均し約を演じた西原亀三は、1917年3月に寺内首相へ「戦時経済動員計画私儀」と題する意見書を提出している。西原は意見書のなかで、第一次世界大戦以降の戦争形態がより徹底した総力戦となることを前提にしつつ、将来の戦争に対応するためには軍事と経済の合理的調和による「自給的経済動員」が不可欠し、そのためにも「支那ヲ我国ト経済同一圏内二置ク」[7]がことを急務とした。

このように、自給自足論を骨子とする対中国姿勢の展開は、日本陸海軍だけでなく政界·財界に共通した認識となっており、それが1920年代から30年代にかけての日本の戦争指導体制の在り方や対中国姿勢を大きく決定していくのである。

1918(大正7)年·1923(大正12)年改訂の国防方針

1918年改訂の「帝国国防方針」は、同年6月12日に参謀総長上原勇作と海軍軍令部総長島村速雄が「新国防方針」を上奏し、同つき29日に天皇の裁可を得たものである。以上の経緯を踏まえ、結局のところ全国軍としては、ロシア、アメリカ、ドイツ、フランスの順で、陸軍はロシア(ソ連)、アメリカ、中国の複数国を主仮想敵国として明示した。兵力は陸軍常時20個師団、戦時20個師団の合計40個師団とした、海軍は8隻の戦艦隊2と、8隻の巡洋艦鄭1という24隻の主力艦隊案、すなわち、八·八·八艦隊とした。数国を仮想敵国とした背景には軍事費確保という意図があったことは確かだが、現実にはアメリカが東アジア地域に日本に対抗する強大な陸軍兵力を展開する可能性は地理的条件からして困難であり、ロシアはロシア革命により崩壊し、近代装備で立ち遅れが目立つ中国が単独で日本に対抗することは無理とする判断が一方では存在した。

それゆえ、日本陸海軍にとり、1918年改訂の国防方針では総力戦への対応や複数国に同時的に対応可能な国防方針を策定することが求められることになった。そして、今回の「帝国国防方針」において、陸軍と海軍はそれぞれ仮想敵国を設定し、南北併進の国家戦略に加え、自給自足国家論を理由とする中国本土を射程に据えた侵略計画を本格的に国防方針に事実上盛り込んだことである。その意味で中国侵略と総力戦国家への展望とが軌を一つにしている点に注目しておきたい。この二つを結びつけている課題こそが、「自給自足国家論」であり、それは同時に欧米に依存する従属型帝国主義国家から脱皮して、自立した帝国主義国家への途を切り開こうとする日本の国家方針があったのである。

そのために中国をはじめ、東南アジア諸地域が、自立的帝国主義国家を目標とする日本の国家方針の犠牲にされていく歴史過程が開始されることになった。その開始を告げるものが、1918年の「帝国国防方針」であったと言うことができよう。

「帝国国防方針」(1923年)は2月28日に「新国防方針案」が裁可となった。総理大臣は海軍大将の加藤友三郎、陸軍大臣は山梨半造、海軍大事は財部彬彪、参謀総長は上原勇作、海軍軍令部長山下源太郎の布陣であった。国家戦略についての具体的な指針は示されていない。作戦の大方針としては、総力戦体制構築への展望と同時に、作戦自体は短期決戦の攻勢が強調された。より具体的には仮想敵国を陸海軍共通としてロシア、アメリカ、ドイツ、フランスの旧方針から、陸軍はロシア、アメリカ、中国、海軍はアメリカを第一の仮想敵国とした。兵力としては陸軍の常時25個師団、戦時25師団の合計で50個師団から、常時20個師団、戦時20個師団の合計40個師団と師団数自体を二割削減した。海軍は8隻の戦艦隊二群と、8隻の巡洋艦隊一群という24隻から編成される主力艦隊案、所謂「八·八·八艦隊」案とした。

第一次世界大戦終了年に改定された「帝国国防方針」は、大戦後における日本を取り巻く激動の国際政治のなかで、次第に時代に不適合な方針となりつつあった。とりわけ、大戦中からそれ以後においては、シベリア干渉戦争(1918~25年)、帝政ロシアの崩壊(1917年11月)、国際連盟の成立(1919年)、ワシントン条約締結(1921年)など、国際社会の構造と日本の位置の大転換は明らかであった。そこで1923(大正12)年の「新帝国国防方針」の中身を少し追っておく。

その冒頭の第一項で、「帝国国防ノ本義ハ帝国ノ自主独立ヲ保障シ国利国権ヲ擁護し帝国ノ国策二順応シテ国家ノ発展ト国民ノ福祉増進トヲ図ル二在リ 凡ソ国防ノ安固ヲ期セン二ハ内、国礎ヲ鞏固二シテ国力ノ充実ヲ図リ外、列国トノ厚誼ヲ敦厚二シテ海外ノ発展ヲ策シ武備ヲ厳二シテ外侮ヲ防キ常二正義公道二立脚シ列国ト協調シテ紛争ノ禍因ヲ除キ以テ戦争ヲ未発二防遏スルニ努ムルト共二一朝有事二際シテハ国家ノ全力ヲ挙ケテ敵二当リ速二戦争ノ目的ヲ達スルノ用意アルヲ要ス」との基本姿勢を示した。

そして、肝心の対中国姿勢については、以下のように記す。すなわち、「支那ハ国家ノ統一ヲ欠キ国勢萎靡振ハス且独力我二抗スルノ実力ナキヲ以テ帝国国防上大ナル顧慮ヲ要セサルカ如キモ其豊富ナル資源ハ我経済的発展並国防上緊要欠クへカラサル要素ナルカ故二我対支政策ハ親善互助、共存共栄ヲ旨トシ平戦両時ヲ通シテ彼カ資源ノ確実ナル利用ヲ期セサルへカラス 然レトモ其不安定ナル政情ト以夷制夷、利権回収ノ伝統政策トハ遽二我期待ノ実現ヲ許ササルモノアリテ或ハ日米ノ紛争二乗シ米二結ヒテ我二抗争ヲ企図スルナキヲ保セス 之二依リ帝国ハ強大ナ威力ヲ以テ之二臨ムノ必要アリ」と。

つまり、中国の発展段階を低位に見積もりつつ、その中国の資源を獲得するためには強大な軍事力の使用を辞さない覚悟が必要であること、また、中国がアメリカとの関係強化によって日本を排除する可能性をも視野にいれつつ、対中国強硬姿勢を全面化してみせている。そして、「帝国国防方針」の冒頭で、「列国トノ厚誼ヲ敦厚二シテ」とし、表向き友好親善への努力を謳いながらも、より具体的かつ本質的には極めて威圧的高圧的な親善方針を打ち出していることが大きな特徴と言える。

この国防方針は依然として軍部が策定した国防方針であって、内閣総理大臣は策定過程では全く除外されていた。また、全体の基調は、国際平和を武力均衡の上に求め、国際連盟の力を重視していない。また、国際的対立を回避し、軍事同盟の積極的締結によって国防·安全保障を確保することが志向されている。なお、1921年のワシントン条約締結により、海軍が構想した八·八艦隊構想は六·四艦隊となった。

以下、1923年の「国防方針」の内容と特徴を列記すると以下のようになろう。

第一に、「国防方針」は軍部が策定したものであって、内閣総理大臣は策定過程で除外されていたこと。第二に、依然として国際平和を武力的均衡の上に求め、国際連盟の力を重視していないことである。また国際的孤立を回避し、軍事同盟の積極的締結によって国防·安全保障を得ていこうとしていることである。第三に、中国に対する“威圧的親善方針”を採用していること、第四に、ワシントン条約の結果、海軍の8·8艦隊が消滅し、6.4艦隊案となったことである。

「統帥綱領」(1918年9月)

「帝国国防方針」が取りあえずは、日本の国家戦略·国家方針を内容とするのに対し、日本陸軍の作戦方針を綴ったものが「統帥綱領」【史料①】である。「日本の対中国戦争指導体制」と言う本史料論文のテーマと直接の関係性は低いかも知れないが、日本陸軍が第一次世界大戦以後、如何なる作戦方針によって対中国侵略計画を発動しようとしたのか、という観点から参考となると思われる。本資料集は、1918(大正7)9月28日に参謀総長上原勇作から陸軍大臣大島健一宛てに「統帥綱領送付ノ件」が通牒され、改正綱領が送付された。

同資料は、拓殖大学図書館佐藤文庫に所蔵されたものを筆者自身が1981年9月に入手したものである。なお、「佐藤文庫」の佐藤とは陸軍軍人の佐藤安之助のことである。以下、1918年版の「統帥綱領」を簡単に要約しておく。先ず、「統帥綱領」とは何か。「総則」には、「本綱領ノ目的ハ主トシテ戦略単位以上ノ大兵團ノ運用二關シ高級指揮官及幕僚二指針ヲ與フル二在リ」と定義されているように、作戦指導者を対象とする最高統帥の基本姿勢を示したものである。

「統帥綱領」は何度か改正されているが、1918年の「統帥綱領」には「総則」「二 輓近代物質的進歩ノ著大ナル二拘ラス戰闘勝敗ノ主因ハ精神的要素二在ルコト従来ト渝ルコトナシ」とか、「三 軍隊ハ精神上ノ團結ヲ以テ神髄トシ指揮官ハ實二其中枢タリ」と記されているように、精神力の発揮が戦勝の要諦とする認識は不変であった。

その一方では、同じく「総則」において、第一次世界大戦における総力戦状況を認識したうえで、政軍関係の在り方について以下のように記す。「七 現時ノ戦争ハ國家ノ全力ヲ擧ケテ之ヲ行フヲ常態トス従テ戦争ノ開始及終末ノ時期二於テハ往々政略ノ作戦を掣肘スルニ至ルコトナキヲ保セス然レトモ統帥ハ勉メテ之二左右セラルコトヲ避クルヲ要ス殊二戦争間二在リテハ断乎トシテ作戦ノ遂行二努力セサルへカラス」と断言する。すなわち、政軍関係に対する基本姿勢は、作戦(=統帥)が政略(=政治)に拘束·規定される可能性が高い現実を踏まえつつ、作戦は一貫した方針を貫徹すべきものであって、とりわけ一旦戦争発動がなされた場合は、作戦の自立性が極めて重要とする認識を示した。

つまり、以後日本軍部が成立し、軍事の政治介入から軍事が政治を凌駕する傾向が顕在化してきた大正末期から昭和初期の政軍関係を予測しているかの如くの主張である。軍部の自立化志向は、大正期におけるデモクラシー優位の政党政治の時代へ対抗するかのように勢いを増していき、それが結局は1931年9月18日の満州事変(9·18事変)に結果していくことは歴史が証明する通りであるが、そのことが「統帥綱領」にも明文化されていたと捉えて良い。

四 日中15戦争期日本の戦争指導体制と戦争方針

日中戦争の起点となった満洲事変を引き起こした首謀者とされる関東軍の石原莞爾が記した「国運転回ノ根本国策タル満蒙問題解決案」(1929年7月)は、日本の1930年代以降における対中国侵攻計画の内実を知る上では、極めて重要な史料である。先ず、それを引用しておく。

一 満蒙問題ノ解決ハ日本ノ活クル唯一ノ途ナリ

1 国内不安ヲ除ク為ニハ対外進出ニヨルヲ要ス

2 満蒙ノ価値

(イ)満蒙ノ有スル価値ハ偉大ナルモ日本人ノ多クニ理解セラレアラス

(ロ)満蒙問題ヲ解決シ得ハ支那本部ノ排日亦同時ニ終熄スヘシ

3 満蒙問題ノ積極的解決ハ単ニ日本ノ為メニ必要ナルノミナラス多数支那民衆ノ為メニモ最 モ喜フヘキコトナリ 即チ正義ノ為メ日本カ進テ断行スヘキモノナリ

歴史的関係等ヨリ観察スルモ満蒙ハ漢民族ヨリモ寧ロ日本民族ニ属スヘキモノナリ

二 満蒙問題解決ノ鍵ハ帝国々軍之ヲ握ル

1 満蒙問題ノ解決ハ日本カ同地方ヲ領有スルコトニヨリテ始メテ完全達成セラル

2 対支外交即チ対米外交ナリ 即チ前記目的ヲ達成スル為メニハ対米戦争ノ覚悟ヲ要ス

若シ真ニ米国ニ対スル能ハスンハ速ニ日本ハ其全武装ヲ解クヲ有利トス

3 対米持久戦ニ於テ日本ニ勝利ノ公算ナキカ如ク信スルハ対米戦争ノ本質ヲ解セサル結果ナ リ 露国ノ現状ハ吾人ニ絶好ノ機会ヲ与ヘツヽアリ

三 満蒙問題解決方針

1 対米戦争ノ準備成ラハ直ニ開戦ヲ賭シ断乎トシテ満蒙ノ政権ヲ我手ニ収ム

満蒙ノ合理的開発ニヨリ日本ノ景気ハ自然ニ恢復シ有識失業者亦救済セラルヘシ

2 若シ戦争ノ止ムナキニ至ラハ断乎トシテ東亜ノ被封鎖ヲ覚悟シ適時支那本部ノ要部ヲ モ我領有下ニ置キ我武力ニヨリ支那民族ノ進路ヲ遮リツヽアル障碍ヲ切開シテ其経済生活ニ溌剌タル新生命ヲ与ヘテ東亜ノ自給自活ノ道ヲ確立シ長期戦争ヲ有利ニ指導シ我目的ヲ達成ス

四 対米戦争ノ為メ調査方針

〔中略〕

2 満蒙及支那本部ヲ占領スル場合ニ於ケル其領有方法ノ立案(軍部自ラ其根本ヲ立案シ細部ハ之ヲ各専門家ノ具体的研究ニ俟ツ)

戦争ヲ以テ戦争ヲ養フヲ根本着眼トシ要スレハ海軍ニ要スル戦費ノ一部又ハ大部モ亦大陸ノ負担タラシムルモノトス

支那統治ノ根本要領

(一)満蒙総督(長春)満洲及熱河特別地区

◎全ク日本軍隊ヲ以テ徹底的ニ治安ヲ維持ス

(二)黄河総督(北京)直隷 山東 山西 河南 察哈爾特別地区

(三)長河総督(南京)江蘇 浙江 安徽 福建

(四)湖広総督(武昌)湖北 湖南 江西

◎以上三総督ノ武力ハ日本軍ナルモ地方治安等ニハ在来ノ支那軍隊ヲ用フ(清朝カ支那統治ノ方式)

(五)西方総督(西安)陝西 甘粛 青海 新疆 外蒙

(六)南方総督(広東)広東 広西

(七)西南総督(重慶)四川 雲南 貴洲 川辺特別区域

◎以上三総督ハ通常支那人ヲ用ヒ支那軍隊ヲ本則トス[8]

満州事変以前後期における対中国侵略計画と実行過程

石原莞爾が記した「国運転回ノ根本国策タル満蒙問題解決案」が言わば内部史料として作成され、極限定された者のみを対象として流布されたが、石原は続いて、「満蒙問題私見」(1931年5月)を執筆し、これは広く流布に務めている。そこには、日清·日露戦争以降において一貫して日本軍部及び日本民衆が希求してきた「満蒙問題解決」という名の満蒙支配への意欲を、あらためて確認する内容であった。以下、引用しておく。

要旨

一満蒙の価値

政治的国防上の拠点/朝鮮統治/支那指導の根拠

経済的刻下の急を救ふに足る

二満蒙問題の解決

解決の唯一方策は之を我領土となすにあり之か為には其正義なること及之を実行するの力あるを条件とす

三解決の時期

国内の改造を先とするよりも満蒙問題の解決を先とするを有利とす

四解決の動機

国家的正々堂々

軍部主動謀略に依り機会の作製

関東軍主動好機に乗す

五陸軍当面の急務

解決方策の確認/戦争計画の策定/中心力の成形

〔本文中略〕

第三 解決の時期

若し戦争計画確立し資本家をして我勝利を信せしめ得る時は現在政権を駆り積極的方針を執らしむること決して不可能にあらす 殊に戦争初期に於ける軍事的成功は民心を沸騰団結せしむることは歴史の示す所なり〔中略〕

第四 解決の動機

国家か満蒙問題の真価を正当に判断し其解決か正義にして我国の義務なることを信し且戦争計画確定するに於ては其動機は問ふ所にあらす 期日定め彼の日韓併合の要領により満蒙併合を中外に宣言するを以て足れりとす

然れ共国家の状況之を望み難き場合にも若し軍部にして団結し戦争計画の大綱を樹て得るに於ては謀略により機会を作製し軍部主動となり国家を強引すること必すしも困難にあらす

若し又好機来るに於ては関東軍の主動的行動により回天の偉業をなし得る望み絶無と称し難し〔以下省略〕[9]

これは日本近代史研究者のみならず、今日においても多くの日本人にとっても、極めて有名な文書となっている。御都合主義的かつ帝国主義的野心を露骨に示した文書が、当時の日本人及び政治軍事指導者の多くに支持されていたことから、満洲事変が最終的に「成功」し、「偽満州国」建国へと一気に動くのである。満洲事変後、同地域の事実上の最高権力者となった関東軍司令官が満洲国執政溥儀宛ての書簡には、当時、関東軍をはじめとする日本軍部だけではなく、日本人及び日本政府の対中国姿勢が浮き彫りにされている。それを以下に引用しておく。

満州国執政溥儀の関東軍司令官宛書簡(1932年3月10日)

〔外務省仮訳〕

書簡を以て啓上候〔中略〕……茲に左の各項を開陳し貴国の允可を求め候

一、弊国は今後の国防及治安維持を貴国に委託し其の所要経費は総て満州国に於て之を負担す

二、弊国は貴国軍隊か国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空路等の管理竝新路の敷設は総て之を貴国又は貴国指定の機関に委託すへきことを承認す

三、弊国は貴国軍隊か必要と認むる各種の施設に関し極力之を援助す

四、貴国人にして達識名望ある者を弊国参議に任し其の他中央及地方各官署に貴国人を任用すへく其の選任は貴軍司令官の推薦に依り其の解職は同司令官の同意を要件とす

前項の規定に依り任命せらるる日本人参議の員数及ひ参議の総員数を変更するに当り貴国の建議あるに於ては両国協議の上之を増減すへきものとす

五、右各項の趣旨及規定は将来両国間に正式に締結すへき条約の基礎たるへきものとす[10]

関東軍司令官の持つ強大な権限を示すものだが、それは日本陸軍にとっても宿願であった満洲支配を関東軍司令官への専制的権限の確立によって実体化しようとするものであった。その限りで石原の構想から満洲事変の強行、それによる満洲支配と専制的権限の確保は、日本陸軍及び日本指導層の対中国侵攻計画が、これにより一定の目標点に到達したことを意味するものであった。

そうした日本陸軍の行為に対し、昭和天皇の姿勢はどのようなものであったか。当初、中国東北部で軍事行動を起こす計画には、欧米諸列強の批判を恐れ、慎重かつ不安感すら抱いていた天皇であったが、一旦満洲事変が「成功」に終わると、次のような「.昭和天皇による関東軍への勅語」(1932年1月8日)を発出していたのである。

関東軍ヘ勅語

曩ニ満洲ニ於テ事変ノ勃発スルヤ自衛ノ必要上関東軍ノ将兵ハ果断神速寡克ク衆ヲ制

シ速ニ之ヲ芟討セリ爾来艱苦ヲ凌キ祁寒ニ堪ヘ各地ニ蜂起セル匪賊ヲ掃蕩シ克ク警備ノ任ヲ完ウシ或ハ嫩江斉々哈爾地方ニ或ハ遼西錦州地方ニ氷雪ヲ衝キ勇戦力闘以テ其禍根ヲ抜キテ皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ朕深ク其忠烈ヲ嘉ス汝将兵益々堅忍自重以テ東洋平和ノ基礎ヲ確立シ朕ガ信倚ニ対ヘンコトヲ期セヨ[11]

つまり、結局のところ天皇も関東軍の行為を容認していたのである。日本陸軍の謀略によって対中国侵攻計画が着実に実行に移され、それが日本政府や天皇によって追認されていくパターンは、この満州事変によって確立されていくのである。従って、これ以後、帝国陸海軍は、日本政府や軍中央、あるいは天皇の指示がなくとも、自らの判断で次々の対中国侵攻計画を実行に移していくようになるのである。

次に、満州事変直前の日本の対中国姿勢に決定的な影響力を持った「北支処理要綱(1936年1月13日 閣議決定)を見ておきたい。

北支処理ノ主眼ハ北支民衆ヲ中心トスル自治ノ完成ヲ援助シ以テ其ノ安居楽業ヲ得セシメ且日満両国トノ関係ヲ調整シ相互ノ福祉ヲ増進セシムルニアリ之カ爲新政治機構ヲ支

持シ之ヲ指導誘掖シテ其機能ノ強化拡充ヲ期ス

要綱

(一)自治ノ区域ハ北支五省〔河北·山西·山東·綏遠·チャハル〕ヲ目途トスルモ徒ニ地域ノ拡大ニ焦慮スルコトナク第二項以下ノ要領ニ則リ徐ニ先ツ冀察二省及平津二市ノ自治ノ完成ヲ期シ爾他三省ヲシテ自ラ進ンテ之ニ合流セシムル如クスルモノトス冀察政務委員会ニ対スル指導ハ当分宋哲元氏ヲ通シテ之ヲ行ヒ民衆ノ自治運動ニシテ公正妥当ナルモノハ之ヲ抱容セシメツツ逐次其ノ実質的自治ヲ具現セシメ北支五省ノ自治ノ基礎ヲ確立ス

冀東自治政府ニ対シテハ冀察政務委員会ノ自治機能未タ充分ナラサル間其ノ独立性ヲ支持シ翼察ノ自治概ネ信頼スルニ至ラバ成ルヘク速ニ之ニ合流セシメルモノトス〔中略〕

(五)北支処理ハ支那駐屯軍司令官ノ任スル所ニシテ直接冀察翼東両当局ヲ対象トシテ実施スルヲ本則トシ且飽ク迄内面的指導ヲ主旨トス又経済進出ニ対シテハ軍ハ主動ノ地位ニ立ツコトナク側面的ニ之ヲ指導スルモノトス但当分ノ間冀察政務委員会指導

ノ爲一機關ヲ北平ニ置キ支那駐屯軍司令官ノ区処(自治機構ノ指導竝ニ顧問ノ統制等)ヲ受ケシム関東軍及北支各機開ハ右工作ニ協力スルモノトス、其ノ他在支各武官ハ右工作ニ策応シ特ニ大使館附武官及南京駐在武官ハ適時南京政権ニ対シ北支自治ノ必要性ヲ理解セシムルト共ニ自治権限六項目ノ承認ヲ強要シ、少クモ自治ヲ妨害スルカ如キ策動ヲ禁遏セシムルモノトストス[12]

満州事変以後の日本軍部の対中国侵攻方針

1931(昭和6)年9月18日、満州事変の勃発以後、日本軍部は主導権を掌握して「偽満州国」(1932年3月)の建国に邁進する。「偽満州国」の建国以後、日本の対中国政策は大きな転換を迎えるが、建国以後の日本陸海軍の戦争方針を史料を通して概観しておく。

まず、1933(昭和8)年9月25日に決定された「海軍の対支時局処理方針」には、「一、一般方針」において、「帝国の対支按政策の基調は支那をして穏健中正なる独立国家たらしめ日満支三国相提携して東洋平和の基礎を確立するに在り、之が為支那側をして速に従来[の]誤りたる政策を是正し我国と相協調せしむる如く指導するを要す」[13]と記し、従来における中国の対日姿勢を根本的に改めさせようとする高圧的な姿勢を明らかにする。「東洋平和」の確立に注後の対日政策は障害とする認識を示している。

そのことは、「東洋平和」確立のためには、中国が阻害の対象である限り、これを制圧してでも目的達成を掲げることは正当化される論理を展開する。これは従来が連綿と続く日本の対中国侵攻方針を合理化·正当化する論理であった。

そうした極めてご都合主義的な論理は、陸軍も全く同様であった。同年10月2日に策定された陸軍提出の陸軍案である「帝国国策」にも、冒頭において「東洋平和確保の伝統的国是に鑑み満州国の哺育発達に関する規定国策を堅持しつつ···」[14]と言った文言が登場する。そして、より具体的には、「6、対支方針」として、「広く親日地域を設定せしむることを以て対支政策の基調たらしむ之が為特に支那の分立的傾向に即応し親日分子の養成及之が組織化を促進するを要す」[15]と記されている。

それは現実に日本の傀儡国家を中国東北地域に「建国」することで現実化するが、当該期における欧米帝国主義国家間の熾烈な競合関係のなかで、あらたな帝国日本の領土を実質確保するためには、「東洋平和」の実現をスローガンに、間接支配の形式を採用しつつ、事実上の実効支配を貫徹する手法を採用する。その方針が、これらの文言のなかに集約されているのである。

そうした対中国観は、1934(昭和9)年12月7日に陸軍省·海軍省·外務省の関係課長間で決定された「対支政策に関する件」においても強調されていた。すなわち、同文書における「第二 方策要綱 一、一般方策」において、「支那側が東亜の大局に覚醒せず依然東亜の平和を破壊すべき政策を継続するに於ては飽く迄之が是正を要求して已まざる堅き我方の決意を支那官民に一層印象せしめ、支那側が日支関係の打開に付現実に誠意を示すに於ては我方亦好意を以て之を迎ふべきも、我が方より進んで和親を求めず、且支那側に於て我方権益を侵害する場合には我方独自の立場に基き必要の措置を執るべしとの厳粛公正なる態度を以て之に臨む」[16]と記されていた。要するに、ここでも日本側の中国支配を受け入れない限り、軍事力の発動によって目的を達成する、とする強い調子が確認されていたのである。

対中国侵攻計画は、その後時間の経過と共に一段と露骨な表現で示されることになる。その計画は陸海軍省など軍部独自のものでは決してなく、当該期に入ると外務省など他省との関係調整も進んでいく。とりわけ、1935(昭和10)年6月5日に陸軍省と外務省との間で「北支交渉問題処理要綱」においては、「処理」と言う名で事実上において中国国家の分断政策を強行していく点での確認が行われている。

日中全面戦争(7·7事変)前後の日本の対中国侵攻計画

1937(昭和12)年7月7日、中日間は全面戦争に突入する。それで、全面戦争に突入する前後期における日本軍部の対中国方針に関する史料を概観しておこう。日中戦争は日本軍部のうち、主に陸軍が担うことにはなったが、日本海軍も陸軍と同様に中国侵攻方針を確実に保持していたと言える。

その代表的史料が、1936(昭和11)年4月頃に策定されたとされる「国策要綱」である。そこにおける「(二)対支那」では、「帝国を中心とする日、満、支三国の提携共助に依り東亜の安定を確保し其の発展を図るを以て基調とす 右目的達成の為には先支那をして我対支三原則を承認せしめ之を実行に移し専ら共存共栄を旨とし恩威併行して彼の実行を監視誘導し機宜経済的並に技術的援助を与へ其の自力更生を助成すると共に我勢力の扶植拡大を図り究極に於て完全なる対日依存の友邦たらしめるを要す」[17]と記す。

ここには、「我勢力の扶植拡大を図り究極に於て完全なる対日依存の友邦たらしめる」とする露骨な帝国主義的野心あるいは侵略方針が赤裸々に記されていた。陸軍に限らず、海軍中央部においても、中国への侵略方針が明記された要綱を日中全面戦争前年に用意されていたことは確認しておくべきであろう。そこには、事変と発生とその拡大が、決して偶発的な事件ではなく、日本軍部を中心として極めて計画的かつ組織的なレベルで構想されていたことが理解されよう。

海軍の意向と同時に、同年6月30日、参謀本部第二課が策定していた「国防国策大綱」も引用しておく。ここでは何よりも対中国侵攻と中国制圧の目的について、「日満北支を範囲とする戦争持久の準備成り蘇国を屈伏せば堂々積極的工作を開始す」[18]とし、中国が近い将来における総力戦に対応するため、長期戦を担保する戦略的資源の供給地とする位置付と、同時に対ソ戦争の拠点として明確に意識されていることを記していたのである。

なお、参謀本部第二課は、同年9月1日にも「対支政策の検討(案)」を策定しているが、その「五、結論」において、「対支政策の根源は、満州国の王道楽土的建設、二、日本民族の仁愛侠義の道徳的政策、三、報復を要求するが如き打算政策の打破(四、略)」としている。参謀本部第二課は、その後も「帝国外交方針改正意見」(1937年1月6日策定)や「対支実行策改正意見」(同右)、「帝国外交方針及対支実行策改正に関する理由並支那観察の一端」(同右)など相次いで意見書をまとめている。

そのなかで、特に注目されるのが「陸軍省に対し対支那政策に関する意思表示」(1937年1月25日)であり、その冒頭には「帝国は庶政一新の断行に依り日満を範囲とする自給自足経済を確立し戦争準備の完了を期す」と記す。ここにも日本の対中国侵攻の狙いが自給自足経済の確立と同時に、国内政治の刷新という二つの目的が掲げられていたのである。

最後の「帝国国防方針」

満州事変(9·18事変)以降、日中両国は本格的な戦争状況にはいる。換言すれば、これ以来15年間に及び日本の対中国侵略戦争が開催される。日本は1937(昭和12)年7月7日に、中国との全面戦争に入っていくが、その前年に戦前期最後の「帝国国防方針」を策定している。少し長い以下に1936(昭和11)年6月3日に裁可された「帝国国防方針」と「用兵綱領」及び「用兵綱領」を書き出しておく。

本方針では仮想敵国をアメリカ、ソ連の順とし、合わせて中国、イギリスとした。そこから軍備はアジア大陸並びに西太平洋を制するに足りる軍備が要求された。

帝国国防方針

一 帝国国防ノ本義ハ建国以来ノ皇謨二基キ常二大義ヲ本トン倍々国威ヲ顕彰シ国利民福ノ増

進ヲ保障スルニ在リ

二 帝国国防ノ方針ハ帝国国防ノ本義二基キ名実共二束亜ノ安定勢力タルヘキ国力殊二武備ヲ整へ且外交之レニ通ヒ以テ国家ノ発展ヲ確保シ一朝有事二際シテハ機先ヲ制シテ速二戦争ノ目的ヲ達成スルニ在リ而シテ帝国ハ其ノ国情二鑑ミ勉メテ作戦初動ノ威力ヲ強大ナラシムルコト特二緊要ナリ尚将来ノ戦争ハ長期二亘ル虞大ナルモノアルヲ以テ之二堪フルノ覚悟卜準備トヲ必要トス

三 帝国ノ国防ハ帝国国防ノ本義二鑑ミ我ト衛突ノ可能性大ニシテ且強大ナル国力殊二武備ヲ有スル米国、露国(「ソヴイエト」連邦ヲ示ス以下之二做フ)ヲ目標トシ併セテ支那(中華民国ヲ示ス以下之二做フ)、英国二備フ之力為帝国ノ国防二要スル兵力ハ東亜大陸竝西太平洋ヲ制シ帝国国防ノ方針二基ク要求ヲ充足シ得ルモノナルヲ要ス

四 帝国軍ノ戦時二於ケル国防所要兵力左ノ如シ陸軍兵力五十師団及航空百四十二中隊海軍兵力艦艇 主力艦十二隻 航空母艦十二隻 巡洋艦二十八隻水雷戦隊六隊(駆逐艦九十六隻)潜水戦隊若干(潜水艦七十隻)航空兵力 六十五隊帝国軍ノ用兵綱領

このなかでも特に注目されるのは、日本との軍事衝突の可能性が大きいと判断されるのが、アメリカとソ連、次いで中国が対象とされていることである。中国に関しては、米ソと同格扱いはしていなものの、日本の中国大陸を射程に据えた国家戦略·国家方針が俎上に挙げられて以来、米ソが日本の中国大陸侵攻過程における障害国として位置づけられ、これと対等に伍していく方向が検討されていたのに対して、中国は日本の覇権対象地として明確に意識されていた。

そのことは、以下の「用兵綱領」を見ても明らかである。それを先ず引用しておく。

用兵綱領

一 帝国軍ノ作戦ハ国防方針二基キ陸海軍協同シテ先制ノ利ヲ占メ攻勢ヲ取リ速戦即決ヲ図ルヲ以テ本領トス之カ為陸海軍ハ速二敵野戦軍及敵主力艦隊ヲ破摧シ併セテ所要 ノ彊域ヲ占領ス尚作戦ノ進捗二伴ヒ若クハ外交上ノ関係二鑑ミ所 要ノ兵力ヲ以テ政略上ノ要地ヲ占領スルコトアリ陸海軍ハ協同シテ国内ノ防衛二任シ前記作戦ノ本領二背馳セサル範囲内二於テ之ヲ実施ス対馬海峡ノ海上交通線ハ陸海軍協同シテ常二確実二之ヲ防衛ス

二 米国ヲ敵トスル場合二於ケル作戦ハ左ノ要領二従フ東洋二在ル敵ヲ撃滅シ其ノ活動ノ根拠ヲ覆シ且本国方面ヨリ来航スル敵艦隊ノ主力ヲ撃滅スルヲ以テ初期ノ目的トス之力為海軍ハ作戦初頭速二東洋二在ル敵艦隊ヲ撃滅シテ東洋方面ヲ制圧スルト共二陸軍ト協力シテ呂宋島及其ノ附近ノ要地並瓦無島二在ル敵ノ海軍根拠地ヲ攻略シ敵艦隊ノ主力東洋海面二来航スルニ及ヒ機ヲ見テ之ヲ撃滅ス陸軍ハ海軍卜協力シテ速二呂宋島及其ノ附近ノ要地ヲ攻略シ又海軍ト協力シテ瓦無島ヲ占領ス敵艦隊ノ主力ヲ撃滅シタル以後二於ケル陸海軍ノ作戦ハ臨機之ヲ策定ス

三 露国ヲ敵トスル場合二於ケル作戦ハ左ノ要領二従フ極東二在ル敵ヲ速二撃破シ併セテ所要ノ彊域ヲ占領スルヲ以テ目的トス之力為陸軍ハ先ツ烏蘇里方面(概ネ興凱湖及ウォロシロフ附近一帯ノ地域ヲ指ス以下之二做フ)ノ敵就中其ノ航空勢力ヲ迅速ニ撃破シ且海軍ト協同シテ所要ノ兵力ヲ以テ浦潮斯徳等諸要地ノ攻略二任ス 次テ黒竜方面(概ネ「プレーヤ」河及「ゼーヤ」河各下流流域ヲ指ス)及大輿安嶺方面二於ケル敵ヲ撃破ス 爾後作戦ノ推移二応シ釆攻スル敵ヲ撃破ス又状況二応シ海軍卜協力シテ必要二応シ北樺太、樺太対岸及カムチャツカ勘察加方面ノ諸要地ヲ占領ス海軍ハ作戦初頭速二極東二在ル敵艦隊ヲ撃滅シテ極東露領沿海ヲ制圧スルト共二陸軍卜協力シテ烏蘇里方面二於ケル敵航空勢力ヲ撃滅ス 又陸軍卜協力シテ浦潮斯徳共ノ他ノ要地ヲ攻略シ且黒 竜江水域ヲ制圧ス欧洲二在ル敵艦隊来航スル場今l於テハ鮎へテ之ヲ撃滅ス

四 支那ヲ敵トスル場合二於ケル作戦ハ左ノ要領二従フ 北支那ノ要地及上海附近ヲ占領シテ帝国ノ権益及在留邦人ヲ保 護スルヲ以テ初期ノ月的·ス 之力為陸軍ハ北支那方面ノ敵ヲ撃破シテ京津地区ヲ占領スルト共二海軍卜協力シテ常朗ヲ攻略シ又海軍卜協力シテ上海附近ヲ占領ス海軍ハ陸軍卜協力シテ青島ヲ攻略スルト共二陸軍卜協力シテ上海附近ヲ占領シ又揚子江水域ヲ制圧ス

五 英国ヲ敵トスル場合二於ケル作戦ハ左ノ要領二従フ東亜二在ル敵ヲ撃破シ其ノ根拠ヲ覆滅シ且本国方面ヨリ来航スル敵艦隊ノ主力ヲ撃滅スルヲ以テ初期ノ目的トス

六 露図、米国、支那及英国ノ内二国以上ヲ敵トスル場合二於テハ概ネ二乃至五ヲ準用シ情勢二応シ此等数回二対シ為シ得ル限り遂次二作戦ヲ行フ

七 参謀総長、軍令部総長ハ本綱領二基キ各作戦計画ヲ立案シ相互二商量協議ヲ重ネタル後裁可ヲ奏請スルモノトス

このなかで第四項の「支那ヲ敵トスル場合二於ケル作戦」の内容は、頗る攻勢的作戦が強調されている。確かに対ソ連戦の場合にも、「北樺太、樺太対岸及カムチャツカ勘察加方面ノ諸要地ヲ占領」する計画が記載されているが、これは保障占領的作戦であって、「北支那ノ要地及上海附近ヲ占上海附近ヲ占領ス海軍ハ陸軍卜協力シテ青島ヲ攻略」する作戦計画が記載された対中国作戦との相違は決定的である。そこには、保障占領ではなく恒久占領としての方針が貫徹されているのである。「帝国国防方針」の改正が行われてた同6月30日に参謀本部作戦課長であった石原莞爾の発案から「国防国策の大綱」が策定されている。大綱は、陸軍の「南守北進」の主張で貫かれ、海軍の「北守南進」の主張にたいし、幾分は妥協した程度であった。しかし、現実の内容は、帝国主義思想、武力至上主義思想で埋め尽くされてい

「国策ノ基準」と「帝国外交方針」

以上の新たな「帝国国防方針」が策定されるが、その直後には日本の国家戦略·国家方針を示した「国策ノ基準」が廣田弘毅内閣によって策定された。この年の2月26日に生起した日本陸軍始まって以来の最大の反乱事件(クーデタ未遂事件)である「2·26事件」により、その処理過程で日本陸軍内では所謂統制派と称される一群が陸軍中央において完全な権力を掌握する。統制派は、日本の軍国主義体制あるいは総力戦体制を構築するためには国家による社会経済統制の徹底が不可欠であり、また総力戦を担うためには欧米諸列強に依存しない「自給自足国家」を目指すべきだと主張した。「自給自足国家」が総力戦国家成立の前提だとし、そのために中国の制圧による中国大陸での支配権を軍事力の発動によって実現することを説いた。ここで廣田弘毅内閣総理大臣が第70回帝国議会(通常会)で行った施政方針演説の一部を引用しておこう。

諸君、茲に昭和12年の新春を迎へ、我が皇室の御隆昌を拜しますることは、我等國民の齊しく慶賀し奉る所でございます 殊に 聖上陛下には天機彌々御麗はしく、玉體益々御健かに渉らせられ、帝國の隆盛、國民の福祉と世界の平和との爲に日夜御宸念あらせ給ふことは、洵に恐懼に堪へぬ次第でございます

本日、此新議事堂に於て政府の所信を披瀝し、諸君と共に洪猷輔翼の重責を竭し、國運の進暢を圖りますることは、私の最も光榮とする所であります

帝國は正を執り邪を斥け、萬邦協和、共存共榮、以て世界の恆久的平和確立に寄與することを其使命と致すのであります、皇室の御稜威と國民の勵精努力とに依り、國力は愈々充實し、國際的地位は益々向上して、有ゆる方面に於て躍進を續け、我が高遠なる使命達成に向って進みつヽあることは、洵に御同慶に堪へぬ所であります

併ながら熟々帝國内外の情勢を稽へまするに、一方國内的には思想、國防、産業、經濟、財政、教育其他幾多の問題を控へ、他方世界の現状は混沌たる状態に在り、帝國を繞る國際政局は愈々機微を加へ、各種の對外問題は益々複雑化しつつある状況でありまして、帝國の前途には幾多の難關あるを覺悟せねばならぬと存ずるのであります、是等の難關を排して我が國運の進暢を期せんが爲には、外に向っては克く帝國の崇高なる使命を世界に宣揚して正しき認識を深め、内に於ては諸般の施設經營の徹底を期して庶政一新の實を擧げ、以て國力の充實を圖らねばなりませぬ、而して其根本は光輝ある國體觀念を愈々明徴にし、内外諸般の方策をして總て之に朝宗せしめ、又國民精神を振作し、我が皇室を中心として、國民一致團結不退轉の決意を以て、淬礪の誠を輸すに在りと考ふるのであります、是れ即ち政府が邦家興新の聖謨を翼贊し奉るの基調を爲すものであります

帝國外交の方針は、前述致しましたる帝國の使命に則り、終始一貫渝らざる所であります、政府は右根本方針に基き、滿洲國との特殊不可分の關係を益々強化して、東亞の安定勢力たるの地位を確保し、又東亞永遠の平和を維持するの大局的見地より、日支兩國の國 交を調整するの肝要なるを信じ、善隣協調和親の實を擧げんと努力しつヽあるのであります

帝國政府は我が尊嚴なる國體に悖り、且つ人類の福祉を害する共産主義的活動に對しては、嚴重なる取締を爲し來ったのでありますが、所謂コミンテルンの危險性は近來益々増大の兆候あり、其國際的赤化宣傳工作は、愈々巧妙深刻となりつヽある情勢に鑑みまして、國際的協力に依る防衞の必要を痛感し、今囘先づ對コミンテルン關係に於て、我邦と立場を同じくする獨逸との間に、防共協定の締結を見るに至ったのであります、帝國政府としては日蘇關係の調整は依然之を重視し、大に努力致して居りますし、又對英、對米の親善關係も益々敦厚ならしむるの決意を有する次第でありまして、國際信義に立脚し列國との交誼を敦くするは言を俟たざる所であります

このなかでも、「滿洲國との特殊不可分の關係を益々強化して、東亞の安定勢力たるの地位を確保し、又東亞永遠の平和を維持するの大局的見地より、日支兩國の國交を調整するの肝要なるを信じ、善隣協調和親の實を擧げんと努力しつヽあるのであります」の件は、「滿洲國」の位置づけを確固なものとし、それを中国に承認させることを対中国政策の基本姿勢に据えようとしていることが知れる。

文字通り、「滿洲國」が日本をして「自給自足国家」へと格上げする対象とする認識が示されたのである。そこには、2·26事件で完全に陸軍中央の主導権を掌握した陸軍統制派の軍事官僚たちの対中国認識が色濃く投影されていた。

その統制派の思想を抱く中心的人物が、満州事変(9·18事変)を引き起こした石原莞爾であり、その後、そうした考えを革新派あるいは急進派と称される将校団が台頭することになる。1930年代から1940年代にかけて、その統制派の筆頭が東条英機であり、その東条は1941年10月に首相に就任し、同年12月8日対英米戦争へと舵を切ることになった。

こうした流れの一方で、従来の「帝国国防方針」が、ともすると陸軍主導の国家戦略·国家方針の打ちだしという色彩が濃いものであっただけに、日本海軍としても自らの戦略·方針を打ち出し、陸軍との調整を図りたい意向を強めていた。それで海軍は、2·26事件以後、陸軍統制派勢力が陸軍中央のみならず、政府をも動かす勢いを持ち始めていたこととも合わせ、自らの地歩を確定するために、同年3月19日に海軍次官長谷川清中将を長とする海軍政策及制度研究調査委員会を設置し、海軍独自の見解を盛り込んだ「国策要綱」と「対外策」を策定した。それは、4月16日に海軍次官、軍令部次長の連盟で「対外国策二関スル件」として公表されることになった。要するに、それは陸軍の主張する「南守北進」路線に対抗して、「北守南進」を打ち出したものである。ここに来て陸海軍の国防方針は大きく分かれることになった。

この通常「国防国策大綱」として示されるもので、1936年6月30日、当時参謀本部作戦課長の要職に就いていた石原莞爾の発案から案出されたもので、これは本来総力戦体制構築に向けて総合国力創出の意図から陸海軍が独自に共同して策定した文章であった。

1936(昭和11)年3月19日、日本海軍は、海軍次官長谷川清を長とする海軍政策及制度研究調査委員会を設置し、「国策要綱」と「対外策」を練った。これは結局、同年8月7日の五相会議(首相·蔵相·陸相·海相·外相)において、「国策の基準」として決定された。

海軍としては、この機会に海軍主導の「北守南進」で国家戦略·国防方針の統一を企画し、海軍大臣永野修身は、6月30日に廣田弘毅首相をはじめ、陸相·海相·外相·蔵相から成る「五相会議」の場で明らかにした。そして、この構成による「五相会議」において、8月7日に決定された。

こうした一連の流れを追うためにも、「国策ノ基準」で如何なる方針が決定されているのか見ておく必要がある。それで先ず「国策ノ基準」を以下に示しておく。

国策ノ基準(五相合議決定)

一、国家経給ノ基本ハ大義名分二即シテ、内、国礎ヲ軍国ニシ外、国運ノ発展ヲ遂ケ帝国力名実共二束亜ノ安定勢力トナリテ東洋ノ平和ヲ確保シ世界人類ノ安寧福祉二乗献シテ慈二輩国ノ理想ヲ巌現スルニアリ帝国内外ノ情勢二鑑ミ当二帝国トシテ確立スヘキ根本国策ハ外交国防相侯ツテ東亜大陸二於ケル帝国ノ地歩ヲ確保スルト共二南方海洋二進出発展スルニ在リテ其ノ基準大綱ハ左記二拠ル

(1)東亜二於ケル列強ノ覇道政策ヲ排除シ真個共存共栄主義ニヨリ互二慶福ヲ頒タントスルハ即チ皇道精神ノ具現ニシテ我対外発展政策上常エー貫セシムヘキ指導精神ナリ

(2)国家ノ安泰ヲ期シ其ノ発展ヲ擁護シ以テ名実共二束亜ノ安定勢力タルヘキ希国ノ地位ヲ確保スルニ要スル国防軍備ヲ充実ス

(3)満洲国ノ健全ナル発達卜日満国防ノ安国ヲ期シ北方蘇囲ノ脅威ヲ除去スルト共二英米二備へ日満支三国ノ緊密ナル提携ヲ具現シテ我力経済的発展ヲ策スルヲ以テ大陸二対スル政策ノ基調トス而シテ之力遂行二方リテハ列国トノ友好関係二留意ス

(4)南方海洋殊二外南洋方面二対シ我民族的経済的発展ヲ策シ努メテ他国二対スル刺戟ヲ避ケツツ前進的和平的手段二依リ我税化ノ進出ヲ計リ以テ満洲国ノ完成ト相俟テ国力ノ充実強化ヲ期ス

二、右根本国策ヲ枢軸トシテ内外各般ノ政策ヲ統一調整シ現下ノ掛勢二照応スル庶政一新ヲ期ス要綱左ノ如シ

(1)国防軍備ノ整備ハ

イ、陸軍軍備ハ蘇囲ノ極東二使用シ得ル兵力ニ対抗スルヲ目途トシ特二其在極東兵力ニ対シ開戦初頭一撃ヲ加へ得ル如ク在満鮮兵力ヲ充実ス

ロ、海軍軍備ハ米国海軍二対シ西太平洋ノ制海権ヲ確保スルニ足ル兵力ヲ整備充実ス

(2)我外交方策ハ一二根本国策ノ円満ナル遂行ヲ本義トシテ之ヲ綜合刷新シ軍部ハ外交機関ノ活動ヲ有利且円満二進捗セシムル為内面的援助二勉メ表面的工作ヲ避夕(三、以下略)

「国策ノ基準」は、従来、乖離が顕著であった日本陸海軍の国防方針を統一調整して、文字通りの国家戦略·国家方針と呼称可能な内実を持たせるために、取りあえずは海軍側の呼びかけに対応する形で廣田内閣の下で成案され、正式決定されたものであった。内容的には陸海軍双方の妥協的かつ折衷的内容であり、客観的に見れば、陸軍がソ連、海軍がアメリカを事実上の第一の仮想敵国としたことで、日本の国力からして極めて困難な選択を敢えてする内容と言えた。

その背景には、この時点で陸海軍が協調·連携する必要性に迫られていたこと、また、日本を取り巻く国際情勢において国内の分裂·乖離を回避し、強力な戦争指導体制を構築することで中国を対象とするアジア地域での覇権を確保したいとする思惑が込められていた。

このなかで、満州事変(9·18事変)以来、日中関係は悪化の一途を辿っていたが、ここでは、「満洲囲ノ健全ナル発達卜日満国防ノ安国ヲ期シ北方蘇囲ノ脅威ヲ除去スルト共二英米二備へ日満支三国ノ緊密ナル提携ヲ具現シテ我力経済的発展ヲ策スル」と記されたように、「満洲国」を当時既に「満洲帝国」とし、日本の傀儡国家としての体裁を整えていたが、ここを起点にして対ソ連、対英米との対抗拠点として位置付を明確に記していた。つまり、「満洲国」が日本にとって、経済的のみならず、軍事的にも極めて枢要な地域として位置づけられていたのである。

「国策ノ基準」が翌年の1937(昭和12)年7月7日の日中全面戦争開始以後における日本の国家方針の大枠を規定したことは間違いなかったが、同年には日本の外交方針をより具体的に記した「帝国外交方針」が策定されている。先ず、その全文を引用しておく。

帝国外交方針(1936年8月7日、四相会議)

国策二遵由シ之力達成ヲ期スル為外交方針ヲ確立シ施策ヲ之二順応セシム可ク出先文武官憲ノ連絡ヲ緊密ニシ且国民ノ指導ヲ積極通切ニシ、以テ外交ノ完全ナル統制ヲ期ス。而シテ我公正妥当ナル権益ノ擁護推進二対シテハ自届退費ヲ戒メ常二積極的態度ヲ持スルト共二列国ノ帝国二対スル猫疑心若シクハ危惧心ヲ解消セシムルニカム

第一 一般方針

東亜ノ恒久的平和ヲ確立シ帝国ノ存立発展ヲ完ウスルカ為、満洲囲ヲ育成シ同国トノ特殊不可分関係ヲ益々軍国ナラシメ、世界的見地二於テ蘇支両国トノ関係ヲ自主的二調整スルト共ニ、南洋方面二平和的発展進出ヲ計り、依テ以テ東亜二於ケル安定勢力タルノ実ヲ挙クルヲ帝国外交ノ中枢方針卜為ス。而シテ近時蘇聯邦ハ共国防上及国際上ノ地位頓二強化スルニ伴ヒ極東二過大ノ軍備ヲ配シテ東亜方面二対スル其ノ武力革命的迫力ヲ増大シ、各方面二対シ赤化進出ヲ企図シ、益々帝国ヲシテ不利ノ地位二至ランメツツアリ。右ハ帝国ノ国防二対スル直接ノ脅威ナルト共ニ、我東亜政策ノ遂行上重大障碍ヲ為スヲ以テ、差当り外交政策ノ重点ヲ蘇聯ノ東亜二対スル侵窟的企図ノ挫折特二軍備的脅威ノ解消、赤化進出ノ阻止二置キ、国防ノ充実卜相侯チ外交手段二依り之力達成ヲ期スヘシ。依テ帝国ハ現下ノ国際情勢二綜合的考察ヲ加へ、主要列国トノ関係ヲ調整シ、国際的二我二有利ナル情勢ヲ誘致スル如ク帝国外交ノ機能ヲ全面的二活動セシムルヲ要ス。[19]

第二 方策要綱

一、現下内外ノ情勢二鑑ミ蘇聯二対シテハ我ヨリ進ンテ事端ヲ滋カラシムルコトヲ厳二戒メ、専ラ平和的手段二依リ、従来ノ懸案解決二努ムルト共ニ輿凱潮ヨリ図椚江二至ル国境劃定及国境紛争処理両委月会ノ設置ヲ図リ、更土其ノ他ノ満、蘇国境及満蒙国境二付テモ此ノ種機構ノ設置ヲ図り仲通当ノ時期二至ラハ非武装地帯設置ヲ提議シい蘇聯側ヨリ更二不侵略条約締結ノ希望ヲ表明シ釆ル場合二於テハ彼我均衡ヲ得ル如キ極東兵備整理ヲモ含メタル日、蘇間重要諸懸案ヲ解決セハ寧口之力締結ヲ希望スル旨ヲ明示シ肖尚蘇聯ノ日、満、支二対スル思想侵窟ヲ防邁スヘキ適当ノ措置ヲ講スヘシ。

二、支那中央及地方政権二対シテハ常二厳然タル態度卜公正ナル施策トヲ以テ臨ミ、対民衆経済工作卜相侯チ其ノ対日態度ヲ是正セサルヲ得サラシムル如ク誘導シ共存共栄ヲ基調トスル日支提携ノ 実現ヲ期ス。北支方面二於テハ日満両国トノ経済的、文化的融合提携ヲ策スルト共二蘇聯ノ赤化進出二対シ日満支共同シテ防衛二当ルヘキ特殊地域タラシムルニカム。爾他ノ地方政権二対シテハ殊更二支那統一又ハ分立ヲ助成シ若クハ阻止スルカ如キ施策ハ之ヲ行ハサルモノトス。以上ハ対支政策ノ根本方針(昭和十年十月四日附対支政策二閑スル決定参照)ニシテ諸般ノ施策皆之二遵拠スヘキモノナリ。然シテ現下ノ施策二当リテハ日蘇関係ノ現状二鑑ミ先ツ速二北支ヲシテ防共親日満ノ特珠地域タラシメ且拭防資源ヲ獲得シ交通施設ヲ拡充スルト共二支那全般ヲシテ反蘇依日タラシムルコトヲ以テ対支実行策ノ重点トス。(差当り実行スヘキ方策ハ別二之ヲ定ム)

三、日米親善関係ノ増進ハ英蘇ヲ牽制スルニ与テカ大ナルモノアル処米国ハ鋭意軍備ヲ拡充シ其ノ伝統的極東政策ヲ基調トンテ帝国ノ政策ノ推移二多大ノ関心ヲ有シ我二対スル警戒ヲ怠ラサルヲ以テ我方今後ノ対支態度如何二依り支那ヲ援助シ益々支那ヲシテ欧米依存ノ政策二出テシムル虞アルノミナラス、我力蘇聯対策上頗ル不利ナル事態ヲ生スル懸念無キニ非ス、依テ帝国トシテハ差当り米国ノ対支通商上ノ利益ヲ尊重シ同国ヲシテ我力公正ナル態度ヲ諒解セシムルト共二日米間ノ経済的相互依存関係ヲ基調トシテ親善関係ノ増進ヲ期シ同国ヲシテ帝国ノ東亜政策遂行ヲ妨害セシメサル様カムヘシ。

四、欧洲政局ノ推移ハ東亜二重大ナル影響アルヲ以テ之ヲ我方二有利二誘導ン特二蘇聯ヲ捷制スルニカムヘシ英国ハ各方面二於テ帝国卜利害関係相客レサルモノ砂ナカラサルモ、東亜二於テ欧米列強中最大ノ権益ヲ有シ、且又欧洲諸国ノ向背力英国ノ態度二依ル処多キニ顧ミ、此際姑ク帝国ハ自主積極的二同国トノ親書関係ヲ増進シ以テ帝国ノ対蘇閑條二於テ我二好意アル態度ヲ執ランメ、蘇聯ノ我二対スル態度ヲ牽制スルト共ニ、我海外発展ノ障碍ヲ後和除去スルコト特二必要ナリ。而シテ支那二於テ両国関係ヲ調整スルコト極メテ効果的ナルカ故「差当り英国ヲシテ帝国力特二支那二於テ特殊且緊要ナル利害関係ヲ有スルコトヲ尊重セシメ又同国ノ在支権益ヲ尊重シ、支那二於ケル日英関係ノ局面打開方二付適切ナル方策ヲ講スルト共二両国間ノ全般的関係ノ調整二努ムヘシ。然レトモ英国ハ列国殊二米、蘇、支ヲ利用シ対日抑圧政策ヲ執ルヘキ虞アルヲ以テ此ノ点特二警戒スルヲ要ス。独逸ハ対蘇関係二於テ概ネ帝国卜利害ヲ斉シクシ、仏蘇ノ特殊関係二濫ミ国防上並二赤化対策上我ノ協調ヲ便トスヘキヲ以テ同国トノ友好関係ヲ増進スルト共二必要二応シ日独提携ノ実ヲ挙クルノ手段ヲ講シ又其ノ関係ヲ拡充シテ汲蘭等ノ親善関係ヲ増進シ以テ蘇聯ヲ牽制スヘシ。其ノ他蘇聯二隣接スル欧洲及亜細亜諸国並二爾余ノ回教諸民族トノ友好関係増進二留意シ其ノ啓発二カムヘシ。

五、南洋方面ハ世界通商上ノ要衝二当ルト共二帝国ノ産業及国防上必要映クヘカラサル地域トンテ将又我民族発展ノ自然的地域トンテ進出ノ地歩ヲ固ムヘキモ関係諸国ヲ刺戟スルコトヲ慎ミ帝国二対スル危惧ノ念ヲ除去スルニ努メ平和且漸進的二発展進出ニカムヘシ。比島二付テハ我方ハ其ノ完全ナル独立ノ実現ヲ期待シ要スレハ比島ノ中立ヲ保障スルヲ辞セス。蘭領印度二対スル我方ノ発展進出二付テハ蘭印側ヲシテ我方二対スル危惧ノ念ヲ去ラシメ、親日二転向セシムルコト極メテ必要ナルニ付、之力為適切ナル方策ヲ講シ、要スレハ和蘭トノ間二不侵略条約ノ綽結ヲ辞セス。遁羅及其ノ他後進民族二対シテハ共存共栄ヲ基調トシテ適当二指導誘液ス

六、海外貿易ハ国民経済生活ノ維持向上二映クヘカラサルノミナラス財政及国際貸借ノ改善二資シ、帝国トンテハ現時ノ内外情勢二鑑ミ特二其ノ伸暢二カヲ致ササルヘカラサルヲ以テ、我々対外通商ノ合理的伸展ヲ計ルト共二成ルヘク列国トノ利害ヲ調節シ、重要資源ヲ確保及獲得シ、延テ経済力ノ滴養二努ムルヲ要ス。

この中で対中国政策としては、「二、支那中央及地方政権二対シテハ常二厳然タル態度卜公正ナル施策トヲ以テ臨ミ、対民衆経済工作卜相侯チ其ノ対日態度ヲ是正セサルヲ得サラシムル如ク誘導シ共存共栄ヲ基調トスル日支提携ノ実現ヲ期ス」と冒頭で謳い、あくまで日本の主導下における日中連携を強調する。そして、特にソ連共産主義勢力の浸透を阻止するために、「北支方面二於テハ日満両国トノ経済的、文化的融合提携ヲ策スルト共二蘇聯ノ赤化進出二対シ日満支共同シテ防衛二当ルヘキ特殊地域タラシム」とする従来の認識をあらためて強調しつつ、最終的には、「支那全般ヲシテ反蘇依日タラシムルコトヲ以テ対支実行策ノ重点トス」とする結論を述べている。

日中全面戦争以後の対中国戦争指導体制

日中戦争の全面化した時点で大本営は設置されなかったが、戦争の本格化に対応して日本陸軍、特に参謀本部は、戦争が一軍令機関の手に負えない内実を持っていること、戦争の政治化·国際化·全体化·長期化という特徴から、政戦両略の一致が不可欠であるとの認識を強く抱くところとなった。そこで、同年11月16日、陸軍省は「大本営設置二関スル件」と題する上奏案を作成した。ここでは政戦両略を説きながら、大本営は日清·日露戦争の時代と異なり、「純然たる統帥の府」として設置することを狙いとしていた。

同つき18日に「大本営令」が制定され、19日には、「大本営政府連絡会議」が設置されることになった。また、続けて20日には大本営が宮中内に設置された。大本営設置の当日、大本営陸海軍部当局談の発表による「大本営設置に際して」によると、大本営設置の趣旨は、次の三つに要約される。すなわち、第一に、長期作戦への本格対処のために、統帥部を戦時態勢に移行する。第二に、平時統帥部と陸海軍省間に分掌されている統帥関係事項の処置を一元化する。第三に、政戦両略の一致を期するため、大本営と内閣との連絡協調を緊密化すること。

このように、大本営自体が政戦両略の一致を図る場でない以上、それは単なる「統帥部を戦時編成化するための名称変更に過ぎない、する指摘もあった。つまり、具体的な政戦両略の一致には何らの効果も得られなかったのである。

統帥権独立制の合理性の問題を政治上から見る場合、統帥権独立制を政軍関係全般または国政の基本問題として見ることが重要である。これを組織論的に見る場合には、政府(内閣)と、議会と大本営または参謀本部及び軍令部との関係の問題ということになる。

対英米戦争開始戦後の戦争指導方針と対中国姿勢

日中全面戦争開始以後、首都南京陥落以後、蒋介石国民党政府は臨時首都を重慶に定め、抗日戦争を進め、国共合作以後は中国人民の抗日意識は高まる一方であった。戦線拡大にともない、中国各地に展開する日本軍は伸び切った戦線をカバーする兵站部門で苦しい局面を迎えていた。日中戦争の膠着化するに伴い、そうした事態を打開する意味でも日本政府は中国を支援するアメリカ及びイギリスとの開戦も時間の問題と受け止め始めていた。

そうした状況のなかで、1940(昭和15)年7月26日に閣議で「基本国策要綱」を決定している。

1940(昭和15)年7月26日、閣議において「基本国策要綱」が策定されたが、全体を貫く姿勢は、国外に対する帝国主義、国内に対する全体主義である。これと同時に大本営政府連絡会議で「世界情勢ノ推移二伴フ時局処理要綱」が付議された。さらに、1941(昭和16)年7月2日、御前会議にて「情勢ノ推移二伴フ帝国国策要綱」が決定された。これらの国防方針は、ソ連、アメリカ、中国と同時に対抗しようとする内容であった。同年9月6日にも、「帝国国策推移項要領」が閣議決定されている。

日支新関係調整方針(1938年11月30日)

日満支三国は東亜に於ける新秩序建設の理想の下に相互に善隣として結合し東洋平和の枢軸たることを共同の目標と為す之か為基礎たるへき事項左の如し

一、互恵を基調とする日満支一般提携就中善隣友好、防共共同防衛、経済提携原則の

設定

二、北支及蒙疆に於ける国防上竝経済上(特に資源の開発利用)日支強度結合地帯の

設定

蒙疆地方は前項の外特に防共の為軍事上竝政治上特殊地位の設定

三、揚子江下流地域に於ける経済上日支強度結合地帯の設定

四、南支沿岸特定島嶼に於ける特殊地位の設定

之か具体的事項に関しては別紙要項に準拠す

別紙日支新関係調整要項

第一善隣友好の原則に関する事項

日満支三国は相互に本然の特質を尊重し渾然相提携して東洋の平和を確保して善隣友好の実を挙くる為各般に亘り互助連環友好促進の手段を講すること

一、支那は満州帝国を承認し日本及満州は支那の領土及主権を尊重し日満支三国は新国交を修復す

二、日満支三国は政治、外交、教育、宣伝、交易等諸般に亙り相互に好誼を破壊するか如き措置及原因を撤廃し且将来に亙り之を禁絶す

三~五、[略]

六、日本は新中央政府に少数の顧問を派遣し新建設に協力す特に強度結合地帯其他特定の地域に在りては所要の機関に顧問を配置す〔中略〕

第二共同防衛の原則に関する事項

日満支三国は共同して防共に当ると共に共通の治安安寧の維持に関し協力すること

一、日満支三国は各々其領域内に於ける共産分子及組織を芟除すると共に防共に関する情報宣伝等に関し提携協力す

二、日支協同して防共を実行す

之か為日本は所要の軍隊を北支及蒙疆の要地に駐屯す

三、別に日支防共軍事同盟を締結す

四、第二項以外の日本軍隊は全般竝局地の情勢に即応し成るへく早急に之を撤収す

但保障の為北支竝南京、上海、杭州三角地帯に於けるものは治安の確立する迄之を駐屯せしむ

共通の治安安寧維持の為揚子江沿岸特定の地点及南支沿岸特定の島嶼及之に関連する地点に若干の艦船部隊駐屯す尚揚子江及支那沿岸に於ける艦船の航泊は自由とす

五、支那は前項治安協力のための日本の駐兵に対し財政的協力の義務を負ふ

六、日本は概ね駐兵地域に存在する鉄道、航空、通信竝主要港湾水路に対し軍事上の要求権及監督権を保留す

七、支那は警察隊及軍隊を改善整理すると共に之か日本軍駐屯地域の配置竝軍事施設は当分治安及国防上必要の最小限とす

日本は支那の軍隊警察隊建設に関し顧問の派遣、武器の供給等に依り協力す〔中略〕

一、支那は事変勃発以来支那に於て日本国民の蒙りたる権利利益の損害を補償す

二、第三国の支那に於ける経済活動乃至権益か日満支経済提携強化の為自然に制限せらるるは当然なるも右強化は主として国防及国家存立の必要に立脚せる範囲のものたるへく右目的の範囲を超えて第三国の活動乃至権益を不当に排除制限せんとするものに非す[20]

次に『現代史資料(8)日中戦争(一)』(みすず書房、1964年)である。同資料のシリーズは全45巻·別巻1から成る極めて膨大な資料群である。このシリーズのうち、第7巻の「満州事変」と、第8~10巻末の「日中戦争」が本テーマに関連する資料が所収されている。そのうちのいくつかの資料には、例えば以下のものがある。

「満州問題処理方針要綱(閣議決定)」(1932年3月12日)、「海軍の対支那時局処理要綱」(1933年9月25日決定)、「対支政策に関する件(陸·海·外三省関係課長間決定)」(1934年12月7日)、「北支交渉問題処理要綱に関する外務陸軍間折衝」(1935年度外務省執務報告)、「対支政策の検討(案)(参謀本部第二課)」(1936年9月1日)、「対支実行策改正意見(参謀本部第二課)」(1937年1月6日)、「陸軍省に対し対支政策に関する意見表示(参謀本部)」(1937年1月25日)、「対支政策(軍令部次長案)」(1937年2月5日)、「海軍の対支実行策案(海軍省部)」(1937年3月5日)、「対支実行策(外務、大蔵、陸軍、海軍四大臣決定)」(1937年4月16日)、「海軍の山東問題対策意見」(1937年5月10日)などである。

これら日本の歴史学会あるいは日中関係史研究においては、いずれも基本史料として繰り返し引用されてきたものである。こうした史料群に加え、未刊行資料として防衛研究所戦史部図書館や外交史料館、さらには国立国家図書館憲政資料室蔵の史料群が数多存在している。