第六章 「满州国」
1.「新国家」建设の階段
日本軍の奉天占领の结果招来せる混乱状態
前章に於いて说述せる如く1931年9月18日事件の结果、奉天市の市行政及奉天省の省行政は完全に破坏せられ延いて其他の二省の省行政に至る程度は少きも影响を蒙りたる。奉天に对する攻撃余りに急速なりし為め全满州の政治的中心なるのみならず大連に次いで南满州の最も重要なる商业的中心たる同市は支那人民の間に恐慌を惹起するに至れり。著名の官公吏并びに教育界及商业界の主要人物の大多数は直ちに家族と共に逃亡せり。9月19日後の数日間に亘り十一万人以上の支那人住民は京奉铁道に依り奉天を去りたるが逃亡し得ざるものは多く潜匿せり。警官及监獄看守人に至る失踪せり。奉天市、奉天県及奉天省の行政は完全に崩坏し電燈、水等供给の公共事业会社、乗合自動車、市街電車并びに電话及電信业務は一切停止するに至れり。銀行及商会は閉鎖せり。
奉天市の秩序及び市政の復活
至急を要するは市政府の组织及市の正常生活の復活にありたるが之は日本人に依り着手せられ迅速且有効に取り運ばれたり。土肥原大佐は奉天市長に就任し三日以內に正常市政は復活せられたり。数百の警官及监獄看守人の大部分は臧式毅将軍(省長)の援助に依り復帰せしめられ公共业務は回復せり。非常時委員会の大部分は日本人より成れるが土肥原大佐を援助し同大佐は一ヶ月間其の職に留まれり。10月20日、市政府の施政は赵欣伯博士(11年間日本に留学し東京帝国大学の法学博士の称号を有する法律家)を市長とする一定の資格ある支那人团体に復帰せられたり。
省政府の再组织(一)奉天省
次の問題は三省の各省政を再建するに在りたり。右事业中奉天省は他の二省に比し一层困难なりき。何となれば奉天は同省行政の中心にして有力者の多くは逃亡し、暫時支那人による省行政は錦州において依然として继せられたればなり。故に省政の再组织が完全に成就せるは三ヵ月後なりき。
臧式毅将軍の独立省政府组织の拒绝
遼寧省省長たりし臧式毅中将は最初9月20日支那中央政府より独立せる省政府组织に关し交涉を受け勧诱せられたるが之を拒绝せり。次いで同中将は逮捕せられ、12月15日釈放せられたり。
九月二十五日袁金凱を委員長とする「治安维持委員会」の设置
臧式毅将軍が独立政府樹立に关する援助を拒绝したる後、支那人有力者の一人たる袁金凱氏が交涉を受けたるが同氏は元の省長にして東北政治委員会の副委員長なりき。日本軍事当局は袁金凱氏及其他八人の支那人住民をして治安维持委員会を组织せしめんことを勧诱せり。同委員会は9月24日组织せられたる旨声明せられたり。日本側新聞は直ちに之を以て分離運動に对する第一歩として称賛せるが10月5日、袁金凱氏は斯かる意思無きことを公然声明せり。袁氏曰く同委員会は「旧施政崩坏後平和及秩序保持の為め实現せられたるものにして逃亡者救出及金融市場回復を援助し且其他の事務に当れるが右は全く単に不必要なる困难を避けしめんが為なりき。然れども同委員会は省政府を组织し又は独立宣言の意思無かりき」云々。
十月十九日財政部の開设
10月19日、治安维持委員会は財政部を開设し支那人官吏を補佐する為め日本人顾問任命せられたり。財政部長は同部の决定に对し効力を发せしむるに先ち軍事当局の承认を得るを要したり。各県內における収税吏は日本人憲兵队又は其他の代理人に依り支配せられたり。場所に依りては右収税吏は毎日憲兵队の検閲に供する為め帳簿を提出するを要し、憲兵队の承认は警官、裁判、教育等公共の目的に要する一切の費用の支出に对し必要なりき。錦州に於ける「敵对者」に向かっての税金送達は直ちに日本当局に報告せられたり。之と同時に財政整理委員会组织せられ其の主要事務は租税制度を建直すに在りたり。日本人代表者及支那人组合代表者は税制に关する论议に参加するを许されたり。長春に於ける「外交部」より调查委員に对し送付せられたる1932年5月30日付「满州国独立史」中における声明に拠れば前述税制審议の结果1931年11月16日付を以て六税の廃止、其他四税の半減、尚其他八税の地方政府への移让并びに法律的根拠無き一切の课税を禁止することを决定せり。
十月二十一日实业部の设立
10月21日、治安维持委員会「遼寧省自治委員会」改名せらるに依り实业部開设せられたり。日本軍当局の承认を求め且右承认を得たり而して多数の日本人顾問任命せられたり。凡て命令を发するに先ち同部長は日本軍事当局の承认を得るを要求せられたり。
東北交通委員会
最後に遼寧自治委員会は新に東北交通委員会を组织したるが同委員会は漸次遼寧省のみならず吉林省及黒龍江两省における许多の铁道に关する管理を掌握するに至れり。同委員会は11月1日遼寧自治委員会より分離せり。
十一月七日の声明及び十一月十日省政府の樹立
11月7日、遼寧省自治委員会は臨時遼寧省政府成る形体に転化し声明書を发表して旧東北政府及南京中央政府より分離せり。臨時遼寧省政府は同省內の各地方政府に对しその发布せる命令を遵守すべきことを要求し、爾後省政府として权限を行使すべき旨发表せり。
11月10日公開式挙行せられたり。
最高咨议委員長の任命
自治委員会が臨時遼寧省政府に改造さるると同時に最高咨议委員会なるもの于冲漢氏の委員長の下に创设せられたり。于冲漢氏は従来治安维持委員会の副议長なりしなり。于冲漢氏は最高咨议委員会の目的を左の如く发表せり。即ち秩序の维持、悪税の廃止による施政改善、租税軽減并びに生産及販売组合の改善是なり。同委員会は更に臨時省政府を指揮监督し各地の伝统及近代的要求に準拠し省自治政府の发展を助成するに在りき。同委員会は総務课、调查课、儀礼课、指導课、监查课及自治指導部の各课より成る。主要吏員の多くは日本人なり。
十一月二十日奉天省の改名及び十二月十五日臧式毅の省長就任
11月20日、省名は奉天省と改正せられたるが右は1928年国民党支配下の支那との合同以前の名称なり。亦12月15日、袁金凱氏は臧式毅将軍に依り代られたり。彼は监禁より釈放せられ奉天省長に就任せるなり。
(二)吉林省
吉林省に省政府を樹立する事业は遥かに容易なりき。23日第二師团多門少将は張作相将軍の不在中省長代理たる熙洽中将と会見し省長たらんことを勧诱せり。右会見後9月25日熙洽将軍は许多の政府当局者及公共团体を召集会合せしめたるが多数の日本人士官も亦参加せり。新省政府樹立の思案に对し何等反对の表明無く9月30日右趣旨の布告書发表せられたり。次いで吉林省政府に关する组织法公布せられたり。政府の委員制度廃止せられ熙洽省長は省政府の行為に对し全責任を負えり。数日後熙洽氏に依り新政府の主要官吏任命せられ其後若干の日本人吏員追加せられたり。総務長官は日本人なりき。県政においても亦行政改革せられ且人員の变動ありたり。四十三県の中十五県は改革せられたるが其中支那人県吏の解任も含めり。其他十県における県吏はき毫将軍に忠诚を宣明したる後其侭就職を持せり。其他は依然として旧政权に忠实なる支那人軍閥の下に留まるか又は闘争各派に对し中立を保てり。
(三)東支铁道の特别区
特别区行政長官張景惠将軍は日本人に对し友好关係に在りき。旧政权は特别区內における铁道守备队及吉林、黒龍江两省における相当多数の軍队を尚有し得たるに对し張景惠氏は何等軍队の背景を有せざりき。9月27日、張景惠はハルピンに於ける事務所において会合を催し特别区の非常時委員会の组织を论议せり。同委員会は張将軍を委員長として其他八人の委員より成り其中王瑞花将軍及1932年1月熙洽将軍に敵对せる「反吉林軍」の指揮官となれる丁超将軍を含めり。11月5日、張作相下の将官の指揮に依り反吉林軍はハルピンにおいて新に吉林省政府を樹立せり。1932年1月1日張景惠将軍黒龍江省長に任命せらるるや省長の資格において1月7日同省の独立を宣言せり。1月29日丁超将軍行政長官の官庁を占领するや張将軍を其屋內に幽閉せり。張将軍は日本軍が北上し丁超将軍撃退後2月5日ハルピンを占领するや再び自由となれり。爾来日本の勢力は特别区內に益々拡大するに至れり。
(四)黑龍江省
黒龍江省に於いて说述せる如く張海鵬及馬占山两将軍の抗争に因り一层複雑せる形勢を生ぜり。11月19日、日本軍のチチハル占领後常例の形式の自治協会なるもの设立せられたるが人民の意思を代表すと称せらるる该協会は特别区の張景惠将軍に对し黒龍江省長を兼任せむことを勧诱せり。然れどもハルピン付近の形勢尚依然として不安定にして馬占山将軍との間に確定協定成立せざりしに因り右勧诱は1932年1月に至る受诺せられざりき。1月に至りてさえも馬占山将軍の態度は暫く曖昧なりき。馬占山将軍は2月丁超将軍が敗北する之と相提携し然る後日本軍と和睦し張将軍の掌中より黒龍江省長の職を受取りたるが次いで左の省長と共に新「国家」の建设に協力せり。1月25日チチハルにおいて自治指導委員会设立せられ他の省と同一形式の省政府の形態漸次成立するに至れり。
(五)熱河省
熱河省は従来满州に於ける政治的变動に对し中立を维持し来れり。熱河省は內蒙古の一部分なり。目下三百万以上の支那人移民同省內に住居し漸次遊牧蒙古人を北方に追放しつつあるが蒙古人は依然として伝统的部族又は旗人组织の下に生活す。约百万を数ふる斯種蒙古人は奉天省の西部に居住する蒙古旗人と若干程度の关係を保持し来れり。
奉天省及熱河省の蒙古人は「盟」を组织したるが其の中最も有力なるものを「チェリム」盟と為す。チェリム盟は独立運動に参加せるが従来しばしば支那の支配より免れんと试み来れる「バルガ」地方即ち黒龍江省西部の「コロンバイル」の蒙古人も亦同運動に参加せり。
蒙古人は容易に支那人と同化せず。彼等は自尊心強き人種にして皆「チンギス」汗の偉业及蒙古武人の支那制服を记憶し居れり。彼等は支那人の支配を受くることを悪み殊に支那移民の来住を好まず。蓋し右移住に因り蒙古人は漸次自己の领土より駆逐せられ居ればなり。熱河省のチチハル及チョサツの两盟は奉天省の各旗と連络を取り居れるか後者は今や委員会に依り支配せられ居れり。熱河省の主席湯玉麟は9月29日同省に对する全責任を執り满州に於ける同僚と連络を取り来りたる由なり。3月9日の「满州国」建国に当り熱河省は「新国家」に包容せられたるか、实際に於いては同省政府は何等决定的措置を執ることなかりき。同省に於ける最近の出来事に付いては前章の末尾において言及するところありたり。
「独立国家」の创立
以上の如くにして各省に设立せられたる地方自治政府機关は次いで分離独立せる「国家」として相结合せられたり。「新国家」が容易に成立したること及「新国家」が成立の後支那人之に对して与えたる支持に关して提出せられたる多くの证拠を理解する為には、或場合には強みとなり他の場合には弱点となる支那社会生活の一特徴を考慮すること必要なり。既に第一章に於いて述べたるが如く、支那人の认むる共同生活上の義務は国家に对するよりは寧ろ家族、地方または個人に对するものなり。西洋に所谓愛国心は支那にては今日漸く感得せられ始めたるに过ぎず。職业组合、協会、盟及軍队等皆或個人的指導者に従うを例とす。斯かるが故に说得または強制に依りて或特定の指揮者の支持を得るときは右指揮者の全勢力範围內の追従者の支持も亦自ら得るころろなるなり。前掲の如き事件の记述は支那人の斯かる特徴が各省政府の组织に如何に巧みに利用せられたるかを示すものにして、同一の之等少数の有力者の働きは最终の階梯を完成する為に用いられたり。
自治指導部
独立を達成する主要なる手段となりしは奉天に中央事務所を有したる自治指導部なり。信憑すべき证人が委員会に对して陳述したる所に依れば右自治指導部は日本人に依り组织せられ且首長は支那人なるも大部分の職員は日本人に依り充たされ关東軍司令部第四部の機关として活動したる趣なり。而して同部の主たる目的は独立運動を作興するに在りたり。右中央部の指揮监督の下に奉天省各県に地方自治執行委員会组织せられたり。之等各県に对し中央部は其の有する监督員、指導者及讲師より成る多数且经験に富める人員中より必要に応じ部員を派したるが其の多くは日本人なりき。尚中央部は其の编集发行せる新聞を利用したり。
一月七日の在奉天自治指導部の布告
右中央部より发せられたる训令の性質は同部が1月1日付を以て同月7日发布したる布告を見れば明らかなり。同布告は東北は今や满州及蒙古に於いて新「独立」国家の建设の為一大民衆運動を遅置なく起こすの必要に直面せりと告げ居れり。同布告は尚奉天省各県に於ける其の事业の发展の状を叙し且奉天省の爾余の各県、更に進んでは奉天以外の各省に对し其の活動を拡張する為の计画を概说したり。而して更に布告は東北民衆に对し張学良を打倒し、自治協会に加入し、清廉なる政府を设立し、人民の生活状態を改善するが為に協力すべしと诉え次の语を以て结べり「北部及東部の组织よ团结せよ。新国家へ。独立へ。」右布告は五万枚頒布せられたり。
一月中に於ける部長の计案
尚1月中には早くも自治指導部部長于冲漢は省長臧式毅と共に「新国家」に对する计案を作りつつありたるが右「新国家」は2月10日樹立せらるべき旨報ぜられたり。然るに1月29日哈爾賓に於いて兵变勃发したること及丁超との战闘中馬将軍の態度不明なりしことは当時右準备の進行を一時延期せる主なる理由なりしが如し。
二月十六日—十七日の奉天会议
其の後丁超敗退後張景惠中将と馬将軍との間の商议の结果、2月14日協定成り之に依り馬将軍は黒龍江省省長に就任することとなれり。「新国家」の基礎を協定すべき会议は2月16日及17日、奉天に於いて開かれたり。東三省または省長及特别区長官并びに従来の一切の準备事业において重要なる役割を演じ来れる赵欣伯博士自ら出席せり。
右五人の会合において「新国家」を建设すべきこと、一時東三省及特别区に对する最高权力を行使すべき東北行政委員会组织すべきこと、及最後に右最高委員会は遅置無く「新国家」の建设の為必要なる一切の準备をなすべきこと决议せられたり。会议の第二日には二人の蒙古王族出席したるが其の一は黒龍江省西部のバルガ地方へコロンバイルを代表し、他即ちチェリム盟のチワン親王は同親王を他の如何なる指導者よりも尊敬し居る殆ど凡ての旗を代表したり。
二月十七日の最高行政委員会
同日、最高行政委員会组织せられたり。其の委員は委員張景惠中将、奉天、吉林、黒龍江及熱河の四省長并びに蒙古地方代表チワン親王及リン·シェン親王なり。同委員会最初の诸决议は次の如し、即ち、「新国家」に共和制を採用すること、構成各省の自治を尊重すること、執政に「摂政」の称号を与えること、四省及特别区長官、全旗体表チワン親王及黒龍江省コロンバイル代表クエイフの署名すべき独立宣言を发すること。关東軍司令官は同夜「新国家の幹部」の為公式の晩餐会を催したるが、同司令官は右幹部に对し其の成功を祝すと共に必要の際には援助を与うべき旨確言するところありたり。
二月十八日の独立宣言
独立の宣言は2月18日发布せられたり。右宣言は永遠の平和を享受せんとする人民の熱烈なる願望及人民に依り選定せられたりと称せらる各施政者が右人民の願望を充たすべき義務に言及せり。宣言は「新国家」樹立の必要に言及し且東北行政委員会は此の目的の為设置せられたる旨述べたり。今や国民党及南京政府との关係破弃せられたるを以て、人民は善政を享受すべしと约束したり。同宣言は通電を以て满州各地に发送せられたり。馬省長及熙洽省長は夫々其の省首都に帰還せるが、代表を任命して臧式毅省長、張景惠長官及赵欣伯市長と会合し以て细目を决定せしめたり。
「新国家」に对する计案
此の团体に依り次いで開かれたる2月19日の会合において共和国を建立すること、憲法中に於いて权力分立主義を規定すること、及前宣统皇帝に執政たらんことを谓うべきことを决议せり。次の数日中において首都は長春とすること、年号は「大同」(大调和を意味す)とすることを决议し尚国旗の図案も决定せられたり。2月25日、右诸决议は熱河省を含む各省政府并びにコロンバイル及チェムリ、チャタオ、チョサツ诸盟の蒙古行政诸官署に通告せられたり。右の中最後に掲げたる三盟は熱河省に设立せられたるものにして、従って既述の如く熱河省省長の意に反する何等の措置を執ること能わざりき。
国家建立促進運動
独立宣言及「新国家」建设诸计画发表後、自治指導部は民衆を组织して之に对する支持を表明せしむる上において指導的役割を演じたり。同部は「新国家建设促進」の為の诸協会设立に与って力ありたり。同部は其の奉天省各県に於ける支部、即ち自治執行委員会に训令して一切の手段を尽くして独立運動を強化促進せしめたり。此の结果、新たなる促進協会は、自治執行委員会を中心として々设立せられたり。2月20日以後此等の新に组织せられたる促進協会は活動を開始せり。ポスターは準备せられ、スローガンは印刷せられ書籍及パンフレットは发行せられ「東北文化半月刊」は发行せられ亦配布せられたり。リーフレットは郵便に依りて多数の名士に发送せられ宣伝事业に对する助力を求めたり。
独立に对する民衆の赞意の组织化
奉天に於いては支那商业会议所は聯を配布して戸口に貼付せしめたり。同時に各県の自治執行委員会は地方绅士并びに商业、農业、工业及教育团体の会長又は着名会員等の如き人民代表の会议を招集せり。加えるに民衆大会は组织せられ行列又は游行県首都の主要街路に行われたり。一般人民又は特殊の团体の希望を表明せる决议は地方有力者会议又は幾千人の出席者ありたりと称せらるる民衆大会に於いて通过したり。此等决议は勿论在奉天自治指導部に送達せられたり。
「新国家」に赞成する二月二十日奉天决议
促進協会及自治執行委員会が奉天省の各県に於いて活動をけたる後「新国家」建设に对する民衆の一般的希望を具体的に表示する為奉天に於いて省大会组织せられたり。斯くて2月28日、会合は開催せられたるが、右会合には同省の一宣言署を发して旧圧制軍閥の没落及新時代の黎明に对する奉天省一千六百万住民の喜悦の情を表明せり。奉天省に关する限りに於いては右運動は斯くして终结を告げたり。
吉林省に於ける独立運動
吉林省に於ける「新国家」賛助運動も亦组织せられ且指導せられたるものなりき。奉天における2月16日の会议に出席中、熙洽省長は同省各県官吏に对し通電を发して「新国家」が行うべき政策に付いての世论に关し情報を与えられんことを求めたり。之等各県官吏は各自の県に於ける诸職业组合及協会に对し十分の指導を与うべき旨命ぜられたり。右通電に对する直接の反响として独立運動は各地に台頭せり。2月20日、吉林省政府は、国家创立委員会を组织したるが、其の目的は各種团体の独立運動を指導するに在りたり。2月24日、在長春人民協会は民衆大会を開催せるが、约四千名の出席有りたる旨報ぜられたり。彼等は「新国家」建立の促進を要求せり。同样なる会议は其の他の地方及哈爾賓に於いても亦開催せられたり。2月25日、全省民衆大会吉林市に於いて開催せられたり。约一万人の出席者ありたる旨報ぜられたり。2月28日、奉天に於いて通过せられたると同样の宣言然るべく发せられたり。
黑龍江省に於ける
黒龍江省に於いては奉天自治指導部が重要なる役割を演じたり。1月7日、張景惠将軍は黒龍江省長の職責を引受けるや同省の独立を宣言せり。
前记奉天自治指導部は、黒龍江省に於ける右加速度的運動を指導援助せり。四名の将校(內二名は日本将校)奉天より齊々哈爾に急行したり。此等将校が齊々哈爾到着後二日を经て即ち2月22日省政府庁舎內の大广間に会合を催したるが右会合には各团体より多数の参加者ありたり。右会合は全黒龍江省大会にして建国準备の方法を决定せむがためのものなりが右大会は2月24日、大示威運動をなすべき旨の决议を可决したり。
齊々哈爾に於ける右示威運動には数千の群衆参加し行列はポスター、巻旗、旗を以て覆われ此事件を祝賀したり。日本の砲兵队は当日を祝福して101发の礼砲を发し、日本飛行機上空を旋回し印刷物を投下したり。直ちに宣言发せられたるが此れに拠り責任內閣制とし且元首に大统领を推戴する共和政体建设せられたり。総ての权力は中央政府に集中せられ省政府はこれを廃止することとし県及市町村は地方行政の単位として存置したり。
2月末に至るまでに奉天、吉林、黒龍江及特别区は既に夫々宣言を发し、蒙古旗族も亦特别自治区を形成し地方蒙古族の权利を保障し得ること或は可能ならしむること判明したるを以て其の忠诚を「新国家」に对し誓うに至れり。回教徒は奉天における2月15日の会合に於いて既に彼等の忠诚を誓いたり。其他未だ帰属せざる少数の满州人の大部分は「新国家」の執政として多分前皇帝が推挙せらるべしとのことを知るや「新国家」を歓迎したり。
二月廿九日奉天に於ける全满大会
各省区が「新国家」建设计画に对し正式の賛同を与えたる後自治指導部は2月29日、奉天に全满州大会を召集したり。右大会には各省并びに奉天省及蒙古地方の各郡等より正式代表其他多数参列し、又吉林及特别区の朝鮮人并蒙古の青年同盟支部等诸種の团体の代表者会合し其の総数7百名以上に達したり。
诸種の演说為され、满場一致を以て宣言及决议可决せられたるが前者は旧制度を攻撃し、後者は「新国家」を歓迎したり。又「新国家」の臨時的元首として前皇帝の宣统帝(帝はヘンリー溥儀氏として知らる)を推挙するの第二决议も採択せられたり。
前皇帝「ヘンリー」溥儀氏「满州国」元首を承诺す
東北行政執行委員会は直ちに緊急会议を開き六名の代表者を選び之を旅順に派遣し去年11月、天津出发以来同地に置在中の前皇帝を招ぜしめたり。溥儀氏は最初之を拒绝したるも3月4日、第二回目の29名より成る代表者は遂に僅か一年を期限として氏の承诺を取り付け得たり。於此前记執行委員会は陸軍中将張景惠を委員長とし他に九名の委員を選出して歓迎委員会を组织したるが右委員会は3月5日、旅順に赴き謁見を賜りたり。前皇帝は委員の懇请を容れて3月6日、旅順を出发し湯崗子に至りたるが2日の後、即ち3月8日には既に「满州国」の執政としての礼遇を受けたり。
三月九日長春に於ける就任式
3月9日、新都長春に於いて就任式行われたり。溥儀氏は執政として「新国家」の政策は「道義、仁慈、愛撫」を基礎とすべきことを约する旨の宣言を发したり。10日には新政府の幹部即ち內閣の閣僚、立法院長监察院長、参议院総裁及副総裁、各省庁及特别区長、各省防备司令其他の高官の任命を見たり。「满州国」建设に关する通告は3月12日诸外国に发せられたるが、右通告の目的は诸外国に对し「满州国」建设の根本目的、对外政策の主義を通告し、「新国家」としての承认を要求するにありとせられたり。
執政の到着前、既に相当数の法規は制定せられ公布せらるるになり居たるが(右法規の制定には赵欣伯博士も時々参加し来りたり)此等法規は3月9日、新政府组织法と同時に实施せられ、其れ有効なりし诸法規は新法規又は「新国家」の根本方針と抵触せざる限り同日付の特别命令に依り暫定的に採用せられたり。
情報の出所
「满州国」创设に至る经过に关する此の既述はあらゆる出所より得たる情報に依り编転せられたるものなり。诸種の事件は其の都度详细に日本の新聞に報ぜられたるが日本人の编転する「マンチュリア·デイリー·ニュース」には多分最も丰富に報ぜられたり。5月30日、長春に於いて現政府により準备せられたる「满州国独立史—满州国外交部编」「满州国概观—满州国外交部编」の二冊支那参与員に依り準备せられたる「東三省に於ける所谓独立運動に关する覚書」は夫々注意深く研究せられたり。加之能う限り第三者より得たる情報利用せられたり。
九月十八日以来の民事行政
9月18日より「满州国政府」建设に至るの間に於ける日本軍憲の民事行政、特に銀行の监督、公共事业の经营及铁道の運用に关する措置は軍事行動開始の時以来、一時的軍事占拠の必要以上の永的なる诸種の目的が遂行せられたることを示したり。9月19日、奉天占拠の直後、支那銀行、铁道事務所、公共事业事務所、鉱山管理事務所等の內部又は門前に护衛を置き然る後此等事业の財政的又は一般的情况の调查行われたり。此等の事務所再開せらるるに及び日本人は顾問、专門家又は秘書に任命せられ執行权限を有したり。多くの企业は前東三省政府又は各省政府の所有したるものなるが此等の政府は战時においては敵国政府と看做さるるを以て何れの銀行も、鉱山も、農工施设も、铁道事務所も公益营造物も实際此等政府が嘗て公的に又私的に利害关係を有したる収入の唯一の源と雖も管理を受けざるものなかりき。
铁道
铁道に关し軍事行動の当初以来、日本官憲に依り執られたる措置は日支間の铁道に付永年係争中なる诸問題の或もの(本問題に关しては第三章に既述せらる)に关し日本のために有利に决定することにありたり即ち急速に左の如き措置執られたり。
(1)長城以北の総ての支那所有铁道及在满州诸銀行に在る此等铁道关係預金は没収せられたり。
(2)满铁と協调せしむる為奉天の內外に於いて线路の变更を為したり。即ち满铁橋下において京奉线を切断し遼寧中央停車場、奉天東駅、奉天北門駅を閉鎖し且吉林行支那政府铁道(後に復旧せらる)との連络を断ちたり。
(3)吉林に於いては海倫吉林线、吉林敦化线及吉林長春线の間に有機的連络を设定したり。
(4)日本の技術的顾問は各铁道に配置せられたり。
(5)支那官憲に依り採用せられたる「特别運賃率」は廃止せられ旧運賃率採用せられたり即ち满铁の運賃率と一致する運賃率の採用を見たり。
9月18日即ち東北交通委員会が機能を停止して以来、「满州国」交通部の開设に至るまでは日本官憲が诸铁道の管理に付全責任を負いたり。
其他の公共事业
在留民の生命及財産の保护の為め必要なる程度を超えて行われたる此種の措置は奉天及安東における電気供给の場合に於いても日本官憲に依りて行われたり又9月18日より「满州国」建设までの期間、日本官憲は支那政府の電话、電信及無電の管理及運用に关し变更を加えたるが右は满州に於ける日本の電话及電信事业と共同し得べし。
结论
1931年9月18日以来、日本軍憲の軍事上及民政上の活動は本質的に政治的考慮に依りて為されたり。東三省の前進的軍事占拠は支那官憲の手より順次齊々哈爾、錦州及哈爾賓を奪い遂には满州に於ける総ての重要なる都市に及びたり。而して軍事占领の後には常に民政が快復せられたり。1931年9月以前に於いて聞かざりし独立運動が日本軍の入满により可能となりたることは明らかなり。
日本における新政治運動に密接なる接触を保ち居たる(第四章参照)日本の文官及将校の一团は其の現職にあると否とを問わず9月18日の事件後に於ける满州の事態の解决策として此の独立運動を计画し组织し、且遂行したり。
彼等は右目的を以て支那人の生命及行動を利用して前政权に对し不平を抱く住民中少数民族を利用したり。
日本の参谋本部が当初より又は少なくとも暫時を经て斯くの如き自治運動を利用することを覚えたること亦明らかなり。其结果彼等は此運動の组织者に对し援助及指導を与えたり。各方面より得たる证拠に依り本委員会は「满州国」の创设に寄与したる要素は多々あるも相俟って最も有効にして然も吾人の見る所を以てせば其れなきにおいては「新国家」は形成せられざりしなるべしと思考せらるる二つの要素ある其れは日本軍队の存在と日本の文武官憲の活動なりと確信するものなり。
右の理由に依り現在の政权は纯粋且自发的なる独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず。
2.「满州国」の現政府
政府组织法
「满州国」は组织法及人权保障法に依りて统治せらる。政府组织法は、政府诸機关の根本的组织を規定したるものにして大同元年(1932年)3月9日付教令第一号に依りて公布せられたり。
執政は国家の元首にして総ての行政权は執政に属し執政は又立法院を统制するの权能あり。執政は重要国務に关し助言を与える参议府に依り補佐せらる。
政府组织法の特質は政府の权力を国務、立法司法及监察の四院に分かつ点にあり。
国務院
国務院の任務は執政统御の下に総理及各総長に依りて遂行せられ総理及此等総長は相合し国務院即ち內閣を组织するものとす。総理は各総長の事務を监督し強力なる総務長を通じて機密事項、人事、主计、需要の事務を直裁す。国務院に付属して诸種の事務局あり就中資政院及法制局は重要なり行政权は斯くの如く主として執政及総理の手に集中せられ居れり。
立法院
立法权は立法院にあり総ての法律及予算は立法院の翼算を经るを要す。然れども立法院が或法案を否决したる場合には執政は立法院に其の再议を要求することを得。而して尚再び其の法案が否决せられたる場合には執政は参议府に咨りて其の可否を裁决することを得。然れども現在に於いては立法院の组织に关する法律は制定せられ居らず。従って诸法律は国務院に依り起草せられ参议府に咨問せられ且執政の承认あらば効力を发生す。従って立法院が组织せられざる限り総理の地位は最も有力なり。
司法院
司法院は数多の法院を包含し此等の法院は最高法院、高等法院及地方法院の三階级に分たる。
监察院
监察院は管理の业绩を监察し会计を検查す。监察院の職員は犯罪行為又は懲戒処分によるの外免職せらるることなく且其の意思に反して停職、転任又は減俸せらるることなかるべし。
省及特别区
地方行政のため「满州国」は五省及二特别区に分たる省は奉天、吉林、黒龍江、熱河及興安なり。最後に掲げたる興安省は蒙古地方を包含し旧来の旗制度及诸旗聯盟の連合に適合する如く三地方即ち県に分たる特别区は、旧東支铁道即ち哈爾賓地方及新に制定せられたる間島即ち朝鮮人地方なり。此の行政的区画に依り主要少数民族なる蒙古人、朝鮮人及ロシア人は彼等の需要に適合する特别の行政を出来得る限り保障せらるべきものとす。委員会は「满州国」に包含せらるることを要求せらるる地方の地図を示されんことをしばしば要求したれども右地図は与えられずして「满州国」の境界を左の如く示す一の書簡を受领したり。
「新国家は南は長城に依り界せられ同国に於ける蒙古诸盟及诸旗はコロンバイル并びに哲里木、昭烏達、卓索の诸旗盟を包含す。」
各省の長官には省長あり。然れども行政权を中央政府に集中せんとするに依り省長は軍队又は財政の何れに对しても何等の权限も与えらるるを得ず。省に於いても中央政府に於いても総務部が支配的地位を保持す総務部は機密事項、人事、会计、文書及他の管轄に属せざる事項を管理す。
县及市町村
省は県に分たる。県は一般に県自治機关に依り治められ右機关は其の指揮下に各部特に総務部を有す。市政府は奉天、哈爾賓及長春に存す。尤も哈爾賓に於いてはロシア市街及支那市街の双方を包含すべき大哈爾賓を建设せんとする计画あり。铁道特区は廃止せらるべし同区の一部は大哈爾賓に包含せらるべく、又、東支铁道沿线の残部は黒龍江省及吉林省に加えらるべし。
「满州国政府」は省を目して行政区画と為し、県及市町村を目して財政上の単位と為す。同政府は省、県及市町村の租税の額を决定し予算を裁决す。一切の地方的収入は中央の国庫に払込まるべく、国庫は然る後適当なる支出を管理す。此等の収入は旧制度の下において普通行われたる如く地方官憲に依り全部又は一部保留せらるることを得ず。自然本制度は未だ满足なる運用を見るに至らず。
「满州国政府」においては日本人官吏は枢要の地位を占め且日本人顾問は総ての重要なる部局に付属す国務総理及其の大臣は総て支那人と雖も「新国家」の组织に於いて最大の实权を行使する各総務部の長は日本人なり。最初日本人は顾問として任命させれたれども最近に至り最も重要なる地位を占むる日本人は支那人と同一の地位に於いて完全なる官吏と為されたり。地方政府若しくは軍政部及軍队又は政府の企业に於ける者を除き中央政府のみにおいて约二百名の日本人は「满州国」官吏なり。
日本人官吏及顾問
日本人は総務庁并びに法制局及咨問局(右は实際上国務総理の官房を構成す)、各院及省政府に於ける総務部及県に於ける自治指導委員会并びに奉天、吉林及黒龍江各省における警察部を管理す。加之大多数の局课には日本人の顾問、書记官及事務官あり。
尚铁道事務所及中央銀行にも多数の日本人あり。监察院においては日本人は総務部長、管理部長及審计部長の地位を占む。立法院に於いて書记長は日本人なり。最後に執政の最も重要なる官吏は宮務局長及執政护衛队司令官を含み日本人なり(重要なる任命は「满州国政府公報」に发表せられたり)。
政府の目的
政府の目的は2月19日の東北行政委員会の宣言及3月1日の「满州国政府」の宣言に表明せられたるが如く「王道」の根本原則に従いて统治するに在り。此の语に对する英语の正確なる同意语を发見するは困难なり。「满州国」当局に依り提供せられたる通訳者は之を「愛」と訳したれども、学者は多数の意味合いを有し得べき「王者の道」(キングリー·ウェー)なる意義を之に与う。而して右は支那の伝统に依れば往時より诚心诚意民の安泰を念としたる善政の基礎たりしものなり伝统的に支那人は「王道」なる表現を「覇道」に正反对なるものとして使用したり。右「覇道」なる表現は孫仙博士に依り其の著「三民主義」中に论ぜられたる如く力と強制とに依頼することを意味す。孫仙は依て「王道」は「力是正義」の正反对なりと说明したり。
新政府创设の主たる立役者たる自治指導部の政策は该部に代わりたる咨問局に依り继せられたり。軍事官憲は行政事項に干与することを许ざれざりき。官職勤務の資格を規律する規則は制定せらるべく且任命は候補者の能力を基礎として為されるべきものなるとせらる。
课税
课税は之を軽減し且法律的基礎の上に置かるべく、又经济及行政の健全なる原則に従い改革せらるべし。直接税は県及市町村の政府に移让せらるべく、中央政府は間接税より得らるる収入を確保すべし。長春当局より供せられたる書类は若干の租税が既に廃止せられ同時に他の租税が軽減せられたる旨を述べ居れり。政府の企业及政府の所有する財源の调整が収入を増加せんこと及将来に於ける軍队の缩小が支出を減少せんことを希望する旨表明せられたり。然れども目下の所「新国家」の財政的地位は不满足のものなり。不正規兵との战争は軍費を大ならしめ他方同時に政府は正規の诸財源より収入を受领し居らず。第一年度の支出は現在大约六千五百万ドルの収入に对し八千五百万ドルの支出と見積もられ二千万ドルの不足を示せり。而て右付則はの地に说明するが如く(本報告诸付属の特别研究第四号参照)新に设置せられたる中央銀行よりの借入金を以て補充せらるる予定なり。
政府は財政的状態の改善するに従い其の収入の出来得る限り多額を教育、公安及国の发展(荒蕪地の開墾、鉱物及森林資源の開发并びに交通制度の拡張を含む)に使用すべき旨の意向を表明したり。政府は国の发展に付外国の財政的援助を歓迎すべきこと并びに機会均等及門戸開放の主義を固守すべきことを述べたり。
教育
政府は既に初等学校及中等学校を再開したり。而して政府は「新国家」の精神及政策を完全に了解すべき极めて多数の教員を训令するの意向を有す。新课程は採用せらるべく、新教科書は编纂せらるべく、而して一切の排外教育は廃止せらるべし。新教育制度は初等学校を改善すること及職业教育、初等学校教員の训令及衛生的生活に关する健全なる思想の教授を強调することを目的と為すべし。英语及日本语の教授は中等学校に於いて義務的たるべく、又日本语の教授は初等学校において随意たるべし。
司法及警察
「满州国」当局は司法に对し行政官憲の干涉の许容せられざるべきことを决定したり。司法官の地位は法律に依りて保障せられ且其の俸给は充分なるものたるべし。司法官の地位に对する資格は高めらるべし。治外法权は当分の間尊重せらるべきも政府は現制度に对する適当なる改革の遂行せられたるとき治外法权の撤廃の為直ちに诸外国と交涉を開始するの意向なり。警察官は適当に選択、训练、给与せられ且完全に軍队(軍队は警察職務を簒奪することを许されざるべし)より分離せしめらるべきものとす。
軍队
軍队の改变は计画せられ居るも現在のところ軍队は大多数旧满州軍より成るを以て増大する不满と谋叛とを避くる為警戒を怠らざること必要なりと感ぜられ居れり。
「满州国」中央銀行は千九百三十二年七月一日長春に其の本店を及他の多くの满州都市に支店を開きたり
「满州国」中央銀行は6月14日设置せられ7月1日に正式に营业を開始せり。同銀行は「满州国」の首都長春に其の本店を并びに满州の都市の大部分に百七十の数に達する支店及出張所を有す。同銀行は三十年間有効の特许状を有する株式会社として组织せられたり。其の最初の行員は支那人及日本人たる銀行家及財政家なりき。同銀行は「內国通貨の流通を規律し、其の安定を保持し及金融を管理する」の权限を付与せられたり。同銀行の資本は三千万ドル(銀)として许可せられ且少なくとも30%の正貨準备を条件として纸幣を发行するの许可を与えられたり。
中央銀行は一切の旧省銀行(邊业銀行を含む)を併吞したり
旧省銀行(邊业銀行を含む)は新中央銀行と合併せられ其の前业務(傍系事业を含む)は新中央銀行に引渡されたり。尚旧省銀行の满州以外の支店を清算する為に措置を讲ずる所ありたり。
新通貨は銀弗を基礎とするも兑换し得るや否やは不明なり
中央銀行は其の建设資金として旧銀行より救出し得べきものに加えるに二千万円(之が「元」の意味なることあり得べし)と報ぜらるる日本の貸付金及其の資本に对する「满州国政府」の七百五十万ドル(銀)の応募とを有す(1932年5月5日「满州国」財政部長より委員会に与えられたる仮予算に依る)同銀行は一切の满州通貨を1932年7月1日より公式に定められたる率を以て新纸幣に代えて買戻すことに依り之を统一せんと计画したり。此等の纸幣は銀弗を基礎とし且少なくとも30%銀、金、外国通貨又は預金を以て保证せれるるを要す。新通貨が要求に応じ且無制限に硬貨に代えらるべきや否やは公式の发表には明らかにせられ居らず旧纸幣は兌换法の通过より二年間流通することを许さるべきも夫れ以後は有効ならざるべし。
現满州通货は实質的に一九三一年九月十八日前に在りしものと同じ
新中央銀行纸幣の注文は日本国政府に发せられたるも今日のところ右纸幣も新硬貨も未だ流通し居らず。满州の現通货は纸幣が各銀行を通过するとき栄厚(新中央銀行総裁)の署名を追加せられ居り外依然1931年9月18日前に存したるものなり。
硬貨の不充分なる供给に基礎を置く「满州国」の统一政策
新「满州国」銀行が如何にして其の自由に処分し得る制限せられたる資本を以て一切の满州通货を统一し安定せんとする熱心なる计画の完成を所期し得るやは明らかならず。旧省诸金融施设より受け继ぎたる財源は日本の诸銀行よりの借入金及其の資本に对する「满州国政府」の応募と共に右目的の為全然不充分と思考せられ。加之如何なる基礎に於いて同銀行の「满州国政府」との关係が设定せらるべきや明らかならず。財政部長より委員会に与えられたる「满州国」仮予算に依れば、「满州国」は其の成立の第一年度中に二千万元/1の不足に直面せんことを予期す。部長の意見に依れば右は中央銀行(当時は存在せざりき)よりの借入金によ補充せらるべきものなりき。其の銀行に七千五百万元応募し、然る後右銀行より其の予算均衡を保つ為二千万元以上を借入れんとする政府は其の中央銀行又は其の予算を健全なる財政的基礎の上に建つるものに非ず。
中央銀行は通貨を兑换可能ならしむるより寧ろ之を统一せんとするが如し
中央銀行は現に有すと认めらるる以上に多額の現实の硬貨を獲得し得るに非ざれば、一切の满州通貨を兌换可能の銀弗を基礎として统一することを殆ど庶幾し得ざるべし。假令同銀行が通貨の统一(兌换可能ならすとするも)を创成するに於ては同銀行は何等か成就したりと云うべけんも、统一的通貨にして其の安定性が兌换に依りて保证せられざるにおいては健全なる通貨制度の要件を充たしたるものに非るなり。
日本人の支配は公共事业に及ぶ
各種の公共造营物及铁道に关し支那側系统と日本側系统とを連结せんことをもくてきとしたる诸取极作成せられたり。奉天事变勃发前日本側は之が实現を熱望したりしも、支那側は绝えず同意を与えることを拒绝したり。尤も9月18日と「满州国」の成立との間に於いて既に本章第1節中に说述したる如く日本側の希望を实現すべき措置直ちに執られたり。「新国家」の成立以来「满州国」交通部の政策は其の权力下に在る主要铁道线路の少なくとも若干の開发に付き南满州铁道会社と協定を為さんとするものの如し。
支那電话電信及ラジオ制度
满州に於ける支那電话、電信及ラジオ制度は全然官有なるを以て政府自身の经营者を有し、東北電话、電信及ラジオ政庁の统一的管理下に置かる。9月18日以来、右制度の3者何れも全满州に於ける日本側制度と更に密接なる共同作业を為したり。加之满州に於ける各地より来り又は各地に至る中继電報并びに关東州租借地、日本、朝鮮、台湾及南洋诸島における各地に至り又は各地より来る中继電報に付き日本電信官庁と東北電信政庁との間に取极作成せられたり。北满州に於ける主要中心地と大連、奉天及長春に於ける日本郵便局との間に通信の迅速なる伝達を確保する為直通线建设せられたり。
日本语仮名の通信は殊に低率とせられたり。日本语信名の取扱を学ぶ為支那人の書记に对し特别なる训练を与え、又日本人の書记をして主要中心地に於いて漸次支那人電務従业員に加わらしむる样计画せられ居れり。斯くして满州及全日本帝国間の電信交通を便利ならしむる為あらゆる便宜を供与せられたり。之に依りて自然两国間の通商关係着しく強固となれり。
塩税 日本軍憲は一九三一年九月塩税收入を管理せり
9月18、19日事件の後、日本官憲は塩税収入を留保し居る官衙及銀行に对し日本官憲の同意無くして此等の保管金より何等の支出を為すべからざる旨の命令を发したり。
右塩税の监理は此の財源よりする収入の大部分が名義上は国家のものなりと雖事实張学良元帥の政府に保留せられ居りたる事实を根拠として主張せられたるものなり。
此の財源よりの収入は1930年に於いては约銀二千五百万ドルに上り右の中二千四百万ドルは满州に於て保留せられ単に百万ドルが在上海塩務稽核総弁に送金せられたり。
張学良元帥は一九二八年满州分担額の支に同意せり
張学良元帥は1928年12月、国民政府に参加後、塩税を担保としたる借入金に对し满州より支払うべき定額即ち銀八万六千六百万ドルの月割分担額の支払に同意せり。其の後1930年4月改正发表せられ之に依り满州の月割分担額は銀二十一万七千八百ドルに増額せられたり。然れども满州財政の地方的逼迫のために張元帥は新割当の支払延期を要求せり。奉天事件の際に於ける彼の置纳額は五十七万六千二百ドルに上れり。新率に依る二十一万七千八百ドルの最初の送金は日本陸軍将校の同意を得て1931年9月29日に实行せられたり。满州に樹立せられたる新政权は右以後、1932年3月に(3月を含む)中央政府に对し啻に之等のつき割り分担額を送金したるのみならず張学良元帥が未払いのまま残したる置纳額をも送金せり。然れども彼等は塩税剰余金を以て国家の収入と认めず之を满州の収入と认め従って之を地方的目的の為に留保することを正当と思考したり。
一九三一年十月及十一月牛庄に於ける塩税の差押
奉天治安维持委員会が省政府に合流せし後、財政庁の支払に充つる為在牛荘塩務稽核署に对し其の総ての保管金を省銀行に移管すべき旨命じたり。支那の公報に依れば在牛荘中国銀行も又原預金者の承诺無くして10月30日、銀六十七万二千七百九弗五十六仙に上る塩税収入保管金の提供を強要せられ遼寧省財政庁の名に於いて同庁日本人顾問のみが署名したる一葉の领収書を交付せられたり。
新吉林省政府亦監税收入を差押へたり
新吉林省政府は吉林及黒龍江の監運署に关し同样の措置を採れり。支那の公報に依れば、新吉林省政府は塩税収入を省金庫に移管すべき旨要求したり。署長が之を拒绝するや彼は数日間拘留せられ且熙洽省長は署長を更迭し後任者を任命したるが同後任者は11月22日同署を強制占领し又監查署は熙洽省長の命令に依り閉鎖せられたり。此の場合に於いても亦中国銀行及交通銀行に保管せられ居りたる塩税収入は新吉林官憲に依り要求せられ11月6日省銀行に移管せられたり。爾来月割分担額は規則正しく上海に送金せられたりと雖も塩税収入は地方官憲に依り随時引き出し費消せられたり。1931年10月30日より1932年8月25日の期間に对しては支那政府の计数を入手し得らるる処、右期間に於いて銀一千四百万ドルに上る塩税収入は满州に於て保留せられたり。
全满州に於ける塩務行政は既述の如き制限及监督の下に在りと雖も尚3月28日は引き行われたるが同日「满州国政府」の財政総長は稽核署に属する預金、勘定、書类其他の財産を「满州国」塩税務司に翌日引继ぐべく又元来中国銀行の扱いたる塩税の徴収は東三省銀行に移管すべき旨の命令を发したり。財政総长は引き「满州国」の塩務行政に勤務を希望する官吏は塩税務司事務所に其の氏名を申出すべき旨を声明すると共に彼等が先ず支那共和国政府に对する忠順を放弃するにおいては其の出願を十分考慮すべき旨を约せり。
「满州国」政府塩税行政を押收す
4月15日、牛荘稽核署は強力を以て解散せられ所長及副所長は署より免職せられ構內は占领せられ金庫、書类及印章は押収せられたり。其の他の官吏は引き勤務方要求せられたるが彼等は何れも之を拒绝したりと報ぜられ居れり。多数の署員は署長に随い天津に赴き上海よりの训令を待ちたり。斯くて東三省における旧塩務稽核署の職務は「满州国」の新塩税務司事務所に依り完全に引继がれたり。尤も新政府は塩税を担保とする外債の為に必要なる金額の衡平なる分担額を引き支払う用意ある旨を声明せり。
税关
满州に於て徴収せられたる关税収入は常時中央政府に送金せられ居たるを以て日本軍憲は关税行政又は上海への送金に干涉する所なかりき。此の収入に对する干涉は先ず「满州国政府」に依り彼等の「国」は独立国なりとの理由を以て行われたり。
满州に於ける关税收入
「满州国」の省政府として2月17日设立せられたる東北行政委員会が最初に為したる行動の一は在满開市場における税关监督に对し关税収入は当然の权利として「满州国」に属すべきものにして将来该委員会の監理の下に置かるべきものなるが当分税关监督及税務司は平常通り職務を執行すべき旨を训令するに在りたり。彼等は一般税关行政を监督する為满州各港に夫々一名の日本人税关顾問が任命せられたり旨通報を受けたり。右と关係あるは龍井村、安東、牛荘及哈爾賓并びに其の支署にして右各港において1931年に徴収せられたる収入は夫々五十七万四千海关两、三百六十八万二千海关两、三百七十九万二千海关两及五百二十七万二千海关两なり。現在尚「满州国政府」の统治外にある愛琿港は支那关税行政の下に活動しつつあり。关東州租借地に在る大連港は特殊の地位を有し居れり。大連を含む满州诸港に於いて徴収せらるる关税収入は全支那の総关税収入に对し1930年に於いては其の14.7%に上り、又1931年に於いては其の13.5%に上るの事实は支那关税行政における满州の重要さを示すものなり。
「满州国」官憲が满州に於ける全关税行政を押収したる手は安東に於ける措置に依りよく例证せらる。右手は総税務司に依り次の如く记述せられたり。
「满州国政府」は一九三二年三月より六月に关税行政及收入を押收せり
3月任命せられたる安東税关日本人顾問は6月中旬は何等積极的行動を執る所無かりしが、同月彼は中国銀行に对し关税収入は爾今上海に送金すべからざる旨の「满州国」財政部の確定的命令を送達せり。6月16日、四名の「满州国」武装警察官は一名の日本人警部に伴われ中国銀行に赴き、同銀行支配人に对し彼等は关税収入を警备する為来れる旨を告げたり。6月19日、中国銀行は東三省銀行に对し七十八万三千两を交付すると共に税務司に对し右措置は不可抗力の结果として執られたるものなる旨を通報したり。
6月26日及27日、「满州国」政府の一日本人顾問は在安東税关を彼に引渡すことを要求したるに对し、税務司が之を拒否したる処「满州国」警官(総て日本人)の為同税務司は税关より退去せしめられたり。然るに税務司は安東税关収入の80%は铁道付属地において徴収せらるるものなるを以て日本官憲が此の地帯內における干涉を许さざるべきことを希望し、其の官舎に於いて尚、税关の事務を執らんとしたる処、「满州国」警官は铁道付属地に入り、多数の税关吏員を逮捕し残余の吏員を脅威し税務司をして支那の税关行政を停止するの余儀なきに至らしめたり。
大連税关の地位
6月7日は大連の关税収入は3日、又は4日おきに上海に送金せられたるが「满州国政府」は6月9日付を以て爾今此等の送金を為すべからざる旨の通牒を发したり。上海に収入の送金途绝えたるに及総税務司は在大連日本人税務司に对し本件に对し電報する所ありたるが右に对し税務司は日本租借地政府の外事课長より关税収入の送金をくることは日本の利益に影响する所大なるべき旨勧告ありたるの理由を以て关税収入の送金继を拒绝したり。依りて総税務司は6月24日、大連税務司を命令不服従の廉を以て罷免したり。
「满州国政府」は6月27日、右罷免税務司及職員を「满州国」の官吏に任命し従前の職務に従事せしめたり。「满州国政府」は若し日本官憲が同政府をして大連税关の监理を為さしめざるにおいては租借地境瓦房店に新税关を设置すべしと威嚇的態度を示せり。租借地の日本官憲は关税行政が新任「满州国」官吏の手に移ることに反对せず。本問題は日本に关係なく単に「满州国」を一方とし支那政府及大連税務司を他方とする两者間に於ける係争問題なりと主張したる。
关税に关する「满州国」政府の見解
「满州国政府」は「满州国」は独立国成るを以て权利として其の领域內における关税行政に对し完全なる管轄权を行使すと主張す。然れども同政府は各種外債及賠償金は支那の关税収入を基礎となし居るの事实に鑑み、此等債務を果たす為必要なる年額の衡平なる分担額を支払うの用意ある旨を声明したり。同政府は右分担額を横浜正金銀行に預金したる後、地方的使途に流用し得る关税余剰金は1932年より1955年においては约一千九百ドルあるべきことを期待し居れり。
满州に於ける郵務行政
9月18日後、在满日本軍憲は新聞及封書に对し検閲を為す以外は郵便局に对し甚だしき干涉を加えざりき。「满州国」の建国後、「同国政府」は其の领域內の郵便行政を押収せんことを欲し、4月14日、郵務行政の移管を实行する為、特别の官吏を任命せり。4月24日、「同国政府」は未だ加盟の資格を有せざりし萬国郵便連合に之が加盟许可方を申込めり。
郵務司が郵便局の引渡しを拒否したる為、暫次現状维持せられたるも官吏手段を行使する為、或る事務所には「满州国」の监督官配置せられたり。尤も、「满州国政府」は遂に「同国」の印纸を发行し支那の印纸使用を停止することに决定したり。7月9日付の交通部令を以て「同国政府」は新印纸及新葉書を8月1日より发売すべき旨を布告せり。兹において支那政府は郵務司に对し在满郵便局の閉鎖を命じると共に、職員に对し三ヵ月分の给与を受くるか又は他の地において勤務する為支那における指定地に帰還するかの選択を许したり。「满州国」官憲は残留を希望する全郵務使用人に对し、順次就職を勧诱し、且支那行政の下に於いて彼等の獲得したる財政上の其の他の权利を保障することを约したり。7月26日、「满州国政府」は全满州を通し完全に郵務行政を押収せり。
私有財産の取扱
「满州国政府」は私有財産并びに支那の中央政府又は满州旧政权の何れかに依り与えられたる総ての免许にして右免许が従前施行中の法令及規則に従い合法的に与えられたるものなる限り之を尊重すべき旨を声明せり。同政府は亦旧政权が負える適法の負債及債務を支払うことを约し、且負債に对する请求を裁决する為に委員を任命せり。張学良元帥其の他前政权の要人に属する財産に对し如何なる措置が採らるべきやを记述することは未だ尚早なり。支那の公報に依れば張学良元帥、萬福麟将軍、鮑毓麟将軍、其の他若干の者の私有財産は没収せられたり。尤も「满州国」官憲は旧政府の官吏は其の权力を行使して彼等自身のために蓄財したるものなるを以て斯くの如き方法に依り得られたる財産は之を以て当然私有財産として承认するの用意なしとの見解を持し居れり。旧官吏の所有物に关しては慎重なる调查行われつつあり但し銀行預金に关する限り右调查は既に终了したりと報ぜらる。
批判
吾人は斯くして「满州国政府」の组织、其の政纲及同政府が支那よりの独立を確认する為執りたる手段の若干を叙述したるを以て、次に该「政府」の行動及其の主たる特質に关する吾人の结论を述べざる可からず。此の「政府」の政纲は数多の自由主義的改革案を包含し、此等の实施は単に满州に於てのみならず支那の他の部分に於いても亦望ましきものなるべし。事实此等改革案の多数は支那政府の政纲中にも亦顕はれ居れり。本委員会との会見の際、右「政府」の代表者は、日本人の援助により彼等は相当期間中に平和と秩序を確立することを得べく、而して軈ては其れを永遠に维持することを得べしと主張せり。彼等は、人民に对し公正にして且効果的なる行政、匪賊の略奪に对する保障、軍費削減の结果たる租税の軽減、通貨の改革、改善せられたる交通機关及一般人民の政治参与权等を与えることに依り、人民の援助を獲得するを得べしとの信念を述べたり。
しかれども現在「满州国政府」がその政策を遂行する為費やしたる時日の短きことを充分酌量し、且既に讲ぜられたる手段に对し篤と斟酌を加えるも猶此の「政府」が事实上其の改革案の多数を遂行し得べきことを示す何等の徴候存せず。単に一例を挙げんに(報告書付属書特殊调查第四及第五参照)彼らの予算制度及貨幣制度の改革案实現の前途には幾多重大なる障碍存するが如し。诸改革、秩序ある状態及经济的繁栄等に关する根本的な政纲は1932年に於いて存在したる不安及攪乱の状態の下に於いては到底实現せらるるを得ざるべし。
「政府」及公共事務に关しては、仮令各省の名義の上の長は满州に於ける支那人たる在住民なりと雖も、主たる政治的及行政的权力は日本人の役人及顾問の掌中に在り。「政府」の政治的及行政的组织は、此等役人及顾問に对し単に技術的意見のみならず、事实上行政を支配し指揮するを得しむるが如き仕组みなり。彼等が常に必ずしも日本政府又は关東軍司令部の公の政策と合致せざりしことあり。然れどもあらゆる重大問題の場合には此等の役人及顾問は新组织の初期に於いては若干の者は多少独自の見解に依り行動することを得たるも、爾後漸次ますます日本の公の权力の指揮に従うを要するに至れり。实際に於いて此の权力は其の軍队による同地方占拠の理由により「满州国政府」が內的にも外的にも其の权力の维持の為日本の軍队に依存することに依り、且「满州国政府」の管轄下に在る诸铁道の管理に关し南满州铁道会社に益々重要となれる任務が委託せられたる结果として、更に最も重要なる地方的诸中心地に於いて連络機关として日本领事の存在することにより如何なる緊急の場合に於いても抵抗すべからざる圧迫を加える手段を有するなり。
「满州国政府」と日本の公の权力との間の連络は最近の特派使節の任命に依り更に一层緊密となりたり。右特派大使は信任状の交付に依り公式に派遣せられたるものに非ずして满州の首都に駐在し、关東長官の資格に於いて南满州铁道会社に对する支配权を行使し且同官職に外交代表者、领事事務の首長及占拠軍の総指揮官たる权能を集中す。
「满州国」と日本国との关係は従来之を明らかにすること若干困难なりき。然れども本委員会の有する最近の情報に依れば日本政府に於いて近く此の关係を明らかにする意思ありとのことなり。1932年8月27日付本委員会宛日本参与員の書簡に特派使節武藤大将は「8月20日、满州に向け東京を出发せり。到着後同大将は日本と满州との間の友好关係の樹立に关する基本条约缔结のため交涉を開始すべし。日本国政府は右条约の缔结を以て「满州国」の正式承认と看倣すべし」との旨の记載しありたり。
3.满州居住民の意見
满州居住の態度
满州居住民の「新国家」に对する態度を確かむることは本委員会の目的の一なりき。然れども调查を行いたる現地の状况に依り证拠を蒐集することに付若干の困难に遭遇せり。匪賊、朝鮮人共産主義者及支那側参与員の新政权批评の為同人の同伴を憤慨すべき新政府の擁护者等よりの本委員会に对する实際の又は予想せられたる危険は、委員会保护の為の例外的手段を執ることとなりたる一理由と成れり。同地方の同样せる状態に於いては確かに实際の危険がしばしば存せり。而して吾人は吾人の旅行中与えられたる効果的なる保护に对し感謝するものなり。然れども斯くて執られたる警察的手段の结果は承认を近づかしめざりしことなり。而して多数の支那人は吾人の部員と会見することすら率直に恐怖し居たり。吾人は或場所において、何人と雖も官の许可なくして本委員会と会見するを许されざる旨吾人の到着前に通達せれたることを聞きたり。依て会見は常に甚だしき困难と且秘密裡に準备せられたり。然も斯かる方法に依りてすら吾人と会見することは彼等にとり余りに危険なりし旨を吾人に知らせたる人多かりき。
斯かる困难にも拘らず吾人は「满州国」の役人及日本国の领事官及陸軍将校との公の会見の他实业家、銀行家、教育家、医師、警察官、商人及其の他との私的会見を行うことを得たり。吾人は又1500通以上の書面を接受したるが、其の中若干は手交せられ大多数は各宛先に郵送せられたり。斯くして得られたる情報は之を中立的方向により出来得る限り真偽を照合せり。
代表团及用意せられたる陳述書
公の团体又は協会を代表する多数の代表团を接受せるが彼等は通例吾人に陳述書を提出せり。代表团の多くは日本国又は「满州国」の官憲により紹介せられたり。而して吾人は彼等が吾人に手交せる陳述書があらかじめ日本側の同意を得たるものなりと信ずべき強き理由を有せり。实際若干の場合に於いては陳述書を手交したる人々が後に至り右陳述書は日本人により書かれ又は甚だしく修正せられたるものにして彼等の真の感情を表せるものと看倣しきれざるものなることを吾人に告げたり。此等の陳述書の顕著なる特質は「满州国」政权の樹立又は维持に对する日本の参加に对しては有利にも又反对にも批评することを故意に避けたる点なり。大体に於いて此等の陳述書は従前の支那政权に对する不平の叙述に关するものにして且「新国家」の将来に对する希望と信頼を表明せる文句を包含せり。
信書
接受したり信書は農民、小商人、都市労働者及学生より发せられたるものにして、筆者の感情及体験を述べ居れり。本委員会が6月、北平に帰還せる後、此の手纸の山は特に其の為に選任したる专門委員をして翻訳、分析及配列を為せしめたり。此等千五百五十通の手纸に二通を除き他は凡て新「满州国政府」及日本人に对し痛烈に敵意を示せり。此等は真摯且自发的に意見を表明したるものの如く思われたり。
「满州国」官吏
「满州国政府」の支那人の高级官吏は種々の理由の為に其の地位に在るなり。彼等の多数はかつて旧政权の官吏たりしが诱惑又は種々の脅迫により引留られたるものなり。彼等の或者は脅迫により其の地位に留まることを強制せられたること、一切の权力は日本人の手中にあること、彼等は支那に忠诚なること及彼等が日本人立会いの下に行われたる本委員会との会見に於いて述べたることは必ずしも信を置くべきものに非ざること等の趣旨の通報を吾人に為したり。若干の官吏は彼等の財産の没収を禦ぐ為その地位に留まりたり。而して斯かる没収は支那本部に遁入せる官吏中若干人の場合に事实として起こりたり。他の评判良き人々は、彼等が行政を改善する权力を有するに至るべしとの希望と、彼等が自由行動权を有すべしとの日本人との约束の下に参加したり。若干の满州人は满州種に属する人々の為に利益を得るの希望の下に参加したり。彼等の或者は失望し且新の权力が彼らに与えられざることを诉えたり。尚少数の者は旧政权に对し個人的不平を有せし為或は利得せるが為其の地位に在るなり。
下级及地方官吏
下级及地方の官吏は大体に於いて一部分生计を得て彼等の家族を扶養せんが為又一部分は若し彼等が去らばより悪しき人間が彼等の地位に代わるべしとの理由により彼等の地位を维持したり。地方県知事の多数も亦一部は彼等の責任下に在る人民に对する義務观念より、又一部は圧迫の下に其の地位に留まれり。高级の地位を评判良き支那人を以て充たすことは困难なりしも、下级の地位及地方官庁に入るべき支那人を得ることは容易なりき。尤も斯かる事情の下に為されたる執務の忠实性は少なくとも疑問なり。
警察
「满州国」警察は一部分は旧支那警察の部員により又一部は新募集者により構成せらる。大都市に於いては警察中に实際日本将校あり。又他の多くの場所に於いては日本人の顾問あり。吾人と谈话せる若干の個々の警察官は新政府に对する彼等の反感を表明し唯彼等は生计を营む為引き奉職せざるべからずと云えり。
軍队
「满州国」軍队なるものも亦主として日本側の监督の下に改编せられたる旧满州の軍人より成る。斯かる軍队は最初彼等は単に地方の秩序を维持するのみにて足ることを条件として新政府の下に勤務することに甘んじたり。然れども爾来彼等はしばしば支那軍に对する真剣なる战争に従事し且日本側の指揮の下に日本軍队と相并んで战うことを要求せられて以来、「满州国」軍队は益々信頼し得ざるものとなりつつあり。日本側より出たる情報は「满州国」軍队の頻发する支那側への內応を報ずるに对し、支那側は彼等の最も信頼に足る且効果大なる軍需品の源泉の一つは「满州国」軍队なりと主張す。
实业家及銀行家
吾人と会見したる支那实业家及銀行家は「满州国」に对し敵意を抱けり。彼等は日本人を嫌悪せり。彼等は彼等の生命及財産に对し恐怖を有し且しばしば次の如く述べたり。「吾人は朝鮮人の如く成ることを欲せず」と。9月18日以後、实业家の支那へ脱出するもの多数ありたり。然れども比較的富裕ならざる若干の者は今や帰還しつつあり。一般的に言えば、比較的小なる商人は日本人の競争に苦しむこと旧政权の役人との間に有利なる关係を有したる大商人及製造业者の場合に比し、より少なかるべしと期待す。多数の商人は吾人の到着の時に於いて尚閉店し居りたり。匪賊の増加は辺境地方における商売に不利なる影响を与え、信用機構は大いに破坏せられたり。满州を经济的に開发すべしとの日本側の意思の发表及过去二、三ヶ月において日本经济使節の夥しき满州访問は、此等使節の多くが失望して日本に帰えれりと報ぜらるる事实に拘らず支那实业家の間に不安の念を惹起しつつあり。
自由職业队级即医師、教師、学生
自由職业階级たる教師及医師は「满州国」に对し敵意を有す。彼等は其行動を探偵せられ脅迫を受けたりと主張す。教育に对する干涉、大学其の他の学校の閉鎖及教科書の改訂等は愛国的理由に基づき燃え上がりつつありし彼等の敵愾心に油を注ぎたる观あり。新聞、郵便及言论の検閲并びに支那において发行せらるる新聞纸の「满州国」への搬入禁止に对しては反感を抱き居れり。もちろん日本において教育を受けたる支那人にして前记の一般的叙述の例外を成すものあり。「满州国」に反对する学生及青年より多くの書面を接受せり。
農夫及都会劳働者
農夫及都会労働者の態度に关する证拠は多種多样にして勿论之を蒐ること困难なり。外国人及教育ある支那人間の意見を徴するに彼等は「满州国」に敵意あるか然らざれば無关心なり。農夫及労働者は政治的に教育せられ居らず、一般に文盲にして普通政治に興味を有すること少なし。農民が「满州国」に敵意を抱くべきことに对し次の理由を述べたるものあるが右は其の後此の階级に属する者より受けたる手纸の內或ものによりて確认せられたり。農夫は新制度が朝鮮人の及恐らく日本人の移民を増加せしむるに至るべしと信ずるの理由を充分有す。朝鮮人の移民は支那人と同化せず而して支那人の農夫は主として豆、高粱及小麦を栽培するも朝鮮人の農夫は米の耕作に従事し两者は農业方法を异にせり。水田の耕作は溝渠を掘り田野を灌溉することを伴い若し豪雨あれば朝鮮人により造られたる溝渠は溢れ付近の支那人の土地に氾滥し其の収穫を皆無ならしむるが如きこともあり得べく又彼等は过去において土地所有权及地代等の問題につき朝鮮人と绝えず争い来れり。「满州国」の建设以来支那人は朝鮮人がしばしば地代を支払うことを停止せること。彼等が支那人より土地を押収せること及日本人が支那人を強制して其の土地を低廉なる値にして売らしめたることを主張す。铁道及都市の付近の農夫は铁道及都市より五百米以內に高粱—高さ十呎(フイ—ト)に成長し匪賊の作動を助くる穀物—の栽培を行うことを禁ずる命令により苦しみつつあり。支那本土より来る労働者の季節的移住は经济的不况を主とし政治的攪乱を例とする原因により減少しつつあるが右の傾向は尚继の勢いに在り。支那より来る移民にとり比較的容易なる条件にて常に利用し得たる公有地は今や「满州国」に移管せられたり。1931年9月18日以降、農村には従来に其例を見ざる匪賊及不逞の徒の跳梁を見たるが是れ一部分敗残兵によるものか一部分は匪賊により零落せしめられたる末生活の為却って自ら匪賊に投じたる農夫によるものなる。支那の他の部分と比較し满州は多年组织的战闘の為苦しめらるること稀なりしやに今や日本軍及「满州国」軍と支那に尚忠诚なる散軍との間に東三省の各部分に亙り此の如き战闘行われつつあり。此の如き战闘は自然農夫に大なる困难を蒙らしむるものにして殊に日本飛行機は反「满州国」軍庇护の疑いある村落を爆破せしことあるにおいては特に然りとす。其结果广大なる地面に作付せざりし事例あるが此の如き農夫は次年度において地代を支払うに困难を感ずるに至るべし。
支那より最近来りたる移民の大多数は事变の勃发以来長城內に逃げ帰れり。是等の实際的理由は日本人に对する或根底深き憎悪心と结合するときは多くの证人をして吾人に对して满州在在住民の圧倒的多数を形成する支那人農夫は新制度の為苦しみ且之を嫌悪し彼等の態度は受動的敵意のそれなることを吾人に告げしむるに至れり。
都会住民については、彼等は所によりては日本の兵士、憲兵及警察官の態度の為苦しみたり。一般的に谓えば日本兵の行状に善良にて個人的蛮行を诉えたる投書に接し居るも一般的略奪又は虐殺の事例なし。他方において日本人は敵意ありと信じたるものに对しては強硬なる手段を執り来たれり支那人は多くの処刑が行われたる事及捕虜が日本憲兵部において脅迫及拷問せられたる事を主張す。
「满州国」の建国式に際し民衆を刺激して之に对する熱心を現わさしむること不可能なりしと聞けり。一般的に谓えば都会人の態度は受動的黙従と敵意の混合なり。
少数民族
吾人は支那人の大多数が「满州国」に对し敵意あるか然らざれば無关心なることを发見すると同時に新政府は满州に於ける少数民族团体—蒙古人、朝鮮人、白系ロシア人及满州人の如き—より或支援を受け居れり。彼等は程度は异なれるも孰れも旧政权の為圧迫を受け又は过去数十年間における多数の支那移民の為经济的不利益を蒙りたり而して何れの部族も新政权に全く傾倒せるものと云い能わざるも新政权より従来に優れる待遇を受くべきことを予期し新政权亦之等少数民族を支援す。
蒙古人
蒙古人は漢人より别個なる人種として残存せり而して既に述べし如く強き民族意识并びに其の部族制度、貴族政治、言语、服装、特别の生活样式、習慣及宗教を保存せり。彼等は尚主として牧畜の民なりと雖も漸次農作に従事し又荷車及動物による農作物の運搬に従事す。满州に接壌する蒙古人は彼等の土地を獲得し耕作し彼等を漸次追い出しつつある漢人移民の為益々苦しみ来たり為に慢性的不可避の反感を有するに至れり。內蒙古人は外蒙古がソ連邦の労力に下に帰するを見たるが彼等はソ連邦の內蒙古への進出し来ることを恐れつつあり。彼等は一方において支那代、他方においてソ連邦が侵略し来るに对抗して别個の国家的存在を维持せんと欲す。彼等は従来叙上の如き不安定なる地位に置かれたるを以て新制度の下においても其の别個の存在せんとするの大なる希望を繋ぎ居れり。加之、王族は其の富の维持の為め主として不動産及其の特权に依倚するのなるを以て自然彼等は事实上の权威者に对し従順たるの傾向ある事を注目するを要す。然れども吾人は北平において或蒙古王族の代表者接したるが彼等は新制度に对し反对なる事を述べたり。現在满州に接する蒙古人と「满州国政府」との間の关係は明確ならず。而して「满州国政府」亦今日彼等の施政に干涉する事を抑制せり。現在における是等蒙古人の或ものの新政权に对する支援は多少の不安を交え乍も兎も角本心よりなるも彼等は若し日本が或将来において彼等の独立または经济上の利益に对する脅威となること明らかなるに至らば此の如き支援は忽之を撤去するに至るべし。
满州人
满州人は漢人と殆ど完全に同化せられたり尤も吉林及黒龍江においては尚少数の重要ならざる满州人の植民地ありて二国语を话すも明らかに满州人として残存す。民国成立以来满州民族は其の特权的地位を失いたり。即ち民国は彼等の補助金の支払いを继すべきことを约したるも減価せる通貨を以て支払われたるが故に彼等に余儀なく经験なき農耕及商売を始むるに至れり。「满州国」に好意を寄せるものはしばしば满州の住民を以て支那の他の住民と人種を异にすと為し、最後の满州皇帝は現執政なりとなすが現存の明らかなる满州人は「新国家」の成立とともに再び特权的待遇を得べしとの希望を懐くものあるべし。满州人は斯かる希望を以て「政府」に入りたるも满州に於ける漢人の证人の言うところによれば彼等は全くの权力は日本人の手に握られ彼等の提议は顾みられざるを見て失望を感じつつある由なり。满州人の血を有する者の間には先帝に对する或精神的忠诚の念尚存すべしと雖も何等顕著なる民族意识ある满州人運動存在せず。彼等の殆ど全く漢人と同化したるを以て今更满州人を官吏に登用して以て民族意识の振興に資せんとの企みあるも此の方面よりの新政府に对する支援は民意代表の名を冒すに足る实を具ふるものにあらず。
朝鮮人
过去において一方において日本官憲の庇护を受くる朝鮮農夫と地方において支那の官吏、地主及農夫との間に多くの軋轢ありたり。过去において朝鮮農夫は暴行及搾取により苦しみたりこと疑いなし。本委員会に陳情を齎したる朝鮮代表は一般に新制度を歓迎す然れども吾人は如何なる範围彼等が其の問題の代表なりしやを確むるを得ず。兎も角政治的避难民たる朝鮮人は日本の统治を遁れるため移住せるものなるを持って更に日本の统治の拡張を歓迎するものとは想像せられず。是等の避难民は共産主義宣伝の善き目的と成り又朝鮮內における革命团体と接触を维持し居れり(第三章及特殊调查第八を参照)。
白系露人
满州に於ける一切の少数民族の团体の內哈爾賓及其の付近における少なくも其の数10万人を算する白系露人の小植民地は近年最も迫害を蒙りたり。彼等は庇护すべき国民政府なき少数民族团体なるの故を以て支那の官吏及警官により各種の屈辱を蒙りたり。彼等は故国の政权と不和の关係に在りて满州に在りてさえ此の故に绝えざる不安の裡に在るものなり。彼らの內裕福にして教育ある者は生计を立て得るも支那官憲が彼等を牺牲にし供して或種の利益をソ連邦より得らるると考えるときは之が為に苦しめらるるを常とす。より貧困なる者は生活を营むこと甚だ困难を見又绝えず警察の手及支那法廷において苦を嘗めつつあり。请負制度により租税が賦课徴収せらるる地方においては彼等は其の支那人たる隣人よりも馀き割合の课税を支払うを要したり。彼等は其の取引及行動に关し多くの制限を经験せり而して彼等の旅券が検查せられ、其の契约が认证せられ又は其の土地が让渡せらるるには官吏に对し賄賂を贈ることを要したり。彼等の多くにとりては現在よりも劣れる条件を想像し能わざるを以て日本人を歓迎したるは尤ものことにして今や彼等の運命は新政权の下に開け行くべしとの希望を抱懐することは怪しむべきに非ず。
吾人は哈爾賓をに在りしとき白系露人の代表并びに多くの書面に接したり而して吾人は之により彼等は左记事項を彼等に保障する如何なる制度をも支持すべしとの结论を得たり。
1.庇护权
2.公正にして有効なる警察行政
3.法廷における正義
4.衡平なる课税の制度
5.賄賂の支払いに依らざる取引及定住の权利
6.児童の教育に对する便宜 彼等の此点における要求は主として彼等をして移民せしむるに役立つ外国语の習得及彼等をして支那において職を得せしむる為の技術教育。
7.土地、定住及移住に关する或援助
结论
以上は满州に於ける吾人の旅行中吾人に伝達せられたる地方人民の意見なり。公私の会見書面及声明書等の形を以て吾人に提供せられたる证拠を注意して研究したる後、吾人は「满州国政府」なるものは地方の支那人により日本の手先と見られ支那人一般に之に何らかの支援を与え居るものに非ずとの结论に達したり。
(1) 予算中本事項及之にく诸項は「满州国」財政部長の一委員との会見に於いて「円」として与えられたるも「满州国」外交部より提出せられたる「满州国概观」の英訳に於いては右は「元」なる用语を以て表示せらる従って委員会は本項及之にく予算項目に言及するに際し「円」よりも寧ろ「元」を使用することとす。「元」に对する支那人の记号は日本人が「円」に对し使用する记号と同一なる為、支那側及日本側双方より委員会に提供せられたる英訳及佛訳を取扱うに当り绝えざる困难ありたり。