第五章 上海
上海事件
1月末上海に於いて战闘发生せり。2月20日の本事件の经过概要は聯盟の任命せる领事国委員会に依り既に報告せられたり。领事国が2月29日、東京に到着せる時、战闘は猶進行中にして、上海に於ける日本政府の武力干涉の起因、動機、及结果に关し调查团は同政府当局と数度讨议を行いたり。调查团が3月14日、上海に到着せる時は战闘は终了し居たるも停战交涉は难关に在りたる次第にて恰も此の時に当り调查团が到着したることは機を得たるものにして良好なる空気を助成せしやも知れず。调查团は最近の敵对行為に基づく緊張せる感情を谅解し且又本紛议に关連する困难及問題の双方につき直接且明確なる印象を得たり。调查团は领事国委員会の事业を引继ぎ又は上海に发生せる最近の出来事に付特に研究すべき旨の训令を受けたることなく却って调查团は支那政府においては调查团が上海に於ける事態调查の為其の满州に赴くことを延引すべしとの如何なる案にも反对の意向を表示したる旨聯盟事務総長より通報に接し居たり。
调查团は上海事件に关する日支两国政府の意見を聴取し又本問題に关する多数の文献を日支双方より接受せり。尚调查团は战火を蒙れる地域を視察し日本陸海軍将校より最近の軍事行動に关する陳述を聴取したり。又個人の資格に於いて调查团は上海在住の何人の记憶にも新しき事实に关し各種の意見を代表する人士と会谈せり。然れども调查团としては正式に上海事件を调查することなく従って之に关連する争点に关し何等意見を表示せざりき。然れども调查团は记録の為2月20日以降日本軍の最後の撤収に至るの軍事行動の叙述を完成すべし。
二月二十日以降上海事件の记述
领事国委員会の最终報告は2月20日、日本側が江湾及呉淞地方に於いて新たなる攻撃を開始したる旨の记述にて筆を止めたり。右攻撃は其の後引き行われたるに拘らず日本軍にとりて何等顕著なる成功を齎さざりしが日本軍は其の结果、所谓支那警衛師第八十七師及第八十八師の一部が今や第十九路軍と同样日本軍と战いつつあるを知るを得たり。此事实及地勢に基づく困难ありし為日本側は二個師团即第十一師团及第十四師团を増派することを决定せり。
2月28日、日本軍は支那側の撤去せる江湾西部を占领せり。同日、呉淞要塞及揚子江上の诸砲台は再び空中及海上より爆撃せられ爆撃機は虹橋飛行場及沪寧铁道を含む全战线に亙り活動せり。日本軍司令官に任命せられたる白川大将は2月29日上海に到着せり。同日以後、日本軍司令部は着々と前進の旨報ぜり。江湾地方にては日本軍は徐々に前進せるが海軍司令部は連日砲撃の结果、閘北に於ける支那軍は退却の兆しある旨報ぜり。同日上海より百哩隔たれる杭州飛行場に对する空中爆撃行われたり。
3月1日、前线の攻撃の進捗遅々たりしを以て日本軍司令官は七了口付近の揚子江右岸に第十一師团主力を上陸せしめ支那軍左翼を奇襲せむが為广汎なる包围運動を開始せり。本軍事行動は成功し支那軍は日本軍司令官の2月20日付最後通牒中に要求せる20km线外に直ちに退却するの己む無きに至れり。3月3日、日本軍が空中及海上よりの爆撃後呉淞要塞に入りたるときは支那軍は既に撤去し居たり。其の前日、沪寧铁道の崑山停車場の東7kmの地点爆撃行われたるが右は支那軍前线への援軍輸送阻止の為めなりと称せられる。
3月3日午後、日本軍司令官は停战命令を下したり。支那軍司令官は3月4日、同样の命令を发せり。支那側は日本軍第十四師团が战闘行為停止後3月7日より3月14日の間に上陸し约一ヵ月後、在满日本軍救援の為满州に輸送せられたることを強硬に抗议せり。其間友好国及聯盟の斡旋に依り停战確保に对する试けられ居たり。2月28日、英国提督サー·ホワード·ケリーは旗舰に日支代表を接受し、相互且同時撤退の基礎とする暫行的協定を提议せられたるが右会议は交涉に基礎に关する意見相違の為に成功を見るに至らざりき。
2月29日、聯盟理事会议長は特に「地方的取极めを為すことを条件とし战闘の终局的终了及决定的停战の為他の关係国参加の下に共同会议」の開催方を勧告せり。两当事国は之を受诺せるも日本代表が(1)支那側が最初に撤退すべく(2)其撤退实行を確かめたる後日本側は撤退すべし但し右は以前も述べられ居たるが如く共同租界及拡張道路への撤収にあらずして、上海より呉淞に及ぶ地域への撤収なりとの条件を出せる為交涉は成功を見ること能わざりき。3月4日、聯盟総会は理事会の提案に言及し(1)日支两国政府に战闘行為停止を確实ならしめんことを求め(2)关係国に对し前項の实行に关し情報提出方を求め(3)战闘行為停止を確实ならしめ且日本軍の撤退を定むる取极缔结の為め列国援助の下に交涉を開始せむことを勧告すると共に右交涉の進行に付列国より情報を受けんことを希望せり。
3月9日、日本側は英国公使を通じ联盟総会の定めたる基礎に依り商议する用意ある旨述べたる覚書を支那側に送付せり。
3月10日、支那側は同样英国公使を通し右基礎に依り交涉するの用意あるも会议が战闘行為の决定的停止及日本軍の完全且無条件の撤退に关する事項に限らるることを条件とする旨回答せり。3月13日、日本側は支那側の留保は联盟の诸决议を变更し又は如何なる意味に於いても日本側を拘束するものと认めざる旨を通報せり。日本側は日支双方は聯盟决议の基礎の上に会合すべきものなりと思考せり、
3月24日、日支停战会议開かれたり。其間日本陸海軍の撤収は現实に開始せられたり。
3月8日、海軍及航空部队は上海を去り其结果残留日本兵力は「常数を超过すること遠からざるもの」となれり。日本軍司令部は3月27日、更に撤収を行うに際し、右撤収は上述会议又は聯盟とは何等关係なく単に上海に最早必要ならざる部队を帰還せしめむとする日本陸軍司令部の独自の决定に过ぎざる旨声明せり。
3月30日、停战会议は前日战闘行為の决定的停止に关する協定成立せる旨发表せるも更に难問題发生し5月5日に至り漸く完全なる停战協定を调印し得るの運びを見るに至れり右協定は战闘行為の决定的停止を定め、正常状態快復したる後更に取极あるまで上海の西方に支那軍の進出を一時制限すべき线を画定し又1月28日の事件以前におけるが如く共同租界及租界外拡張道路上へ日本軍の撤収を定めたり。但し日本軍の数は共同租界內にのみ駐屯せしむるには多きに过ぎたるを以て共同租界外の若干地域は当分の間包含せらるべきものとなりたるが其後日本軍撤収せるを以て此等の地域に付いては记述の要なし。米英佛伊友好国并びに两当事国の参加せる共同委員会を设置し双方の撤退を確むることとし本委員会は亦日本軍より支那警察への引继ぎにも協力することとなれり。
支那側は停战協定に二個の留保を付加せり。第一の留保は、協定中の如何なる規定も支那领土內における支那軍の行動を永久的に制限することを意味せざる旨の声明にして第二の留保は、日本軍駐屯の為暫時设けられたる地域に於いても警察を含む一切の地方行政は支那官憲の手に存すべきむねの声明なり。
停战協定の条項は大体主要部分において履行せられたり。撤退地域は5月9日、同月30日の間に支那特别警察に引渡されたり。但し之等四地域の引继ぎは多少延引を見たり。家屋及工場を所有する支那人、铁道会社の役員及其他の者が撤収地域に復帰し始めたるとき掠奪、故意の破坏及財産喪失に关し多数の苦情が日本軍当局に提起せられたるは蓋し自然のことなり。支那側に於いては賠償に关する全問題は将来商议せらるべきものなりとし死傷及行方不明の将卒及人民の数二万二千四百、物質的損害全額は略々十五億墨弗に達すと推定し居れり。租界外拡張道路地域に关する協定草案は上海工部局及支那大上海市政府代表に依り署名せられたり。然れども本案は未だ上海工部局又は市政府の何れよりも承认を得ず。工部局は领事国の意見を求むる為主席领事に本案を移牒せり。
上海に於ける支那側抵抗の满州の事態に及ぼせる影响
上海事件は疑いもなく满州に於ける事態に着しき影响を及ぼせり。日本側が容易に满州の大部分を占领し得たること及支那軍より何等抵抗を受けざりしことは単に日本陸海軍をして支那軍の战闘力が無視し得べき程のものなりと信ずるに至らしめたるのみならず全支那をして大いに意気喪失せしめたり。然るに第十九路軍が最初より第八十七師及八十八師の援助の下に试みたる強硬なる抵抗は全支那に於いて熱狂的歓呼を受けたるが当初の三千の日本陸战队に三個師团及一混成旅团の応援加わり六週間の战闘の後漸く支那軍敗退駆逐せられたるの事实は支那側士気に多大の印象を与え支那は其自身の努力に依りて救われざるべからずとの感情拡まれり。日支紛争は支那全民の念頭に入り支那各地何れにおいても支那人の意見強硬となり抵抗心増加して従前の消极主義は消去り誇張せる楽观主義行わるるに至れり。满州に於ては上海よりの報道は当時尚日本軍と战いつつありし各地支那軍に新たなる勇気を与えたり。右報道は馬占山其後の抵抗を強むることとなり又世界各地に在る支那人の愛国心を刺激せり。義勇軍の抵抗も増大あるが為之等支那軍讨伐は捗しき成功を収めず、或地方に於いては日本軍は铁道沿线に陣地を占め守勢を執り居たるが右铁道もしばしば支那側の攻撃を受けたり。
一九三二年二月一日の南京事件
上海に於ける交战に伴い数個の事件发生せるが其の一つは南京砲撃なり。本事件は支那以外においても多大の興奮と驚愕とを生ぜしめたるが右は2月1日の深更发生せるも一時間以上は继せざりき。本件は多分误解に基づくものならんか、支那政府の南京より洛陽への臨時迁都なる重大なる结果を招来せり。
南京事件の原因及事实に关する日支双方の解釈には非常なる悬隔あり。日本側より调查团に提出せる主張二ありしか。第一は上海の战闘发生後支那側は獅子山砲台を拡張し塹壕を築き、江畔の城門及江の反对側に砲兵陣地を设け江に軍舰を碇泊せしめ居たる日本側に心配を生ぜしむるに足るが如き規模の軍事施设をなせりと云うに在り。第二は支那新聞は上海支那軍の勝利の虚報を拡め南京支那人を大いに昂奮せしめ其の结果日本側の云う所に依れば日本人雇用の支那人は其の職を去る样強迫せられ支那商人は领事館員及軍舰乗组員外日本在留民に食糧品供给を拒绝するに至れりと云うにあり。
支那側は之等の主張に对し何等批评を加えず。支那側は当時一般の不安及緊張せる空気は日本側が上海事件发生後碇泊軍舰数を二隻より五隻に増加し次いで七隻(日本側当局は右数を六隻なりとし三老龄砲舰及三駆逐舰なりとす)に増加したるに基づくものなる旨又日本海軍司令官は水兵若干を上陸せしめ之を日本领事館員及全日本居留民が「ハルク」に避难せる日清汽船埠頭の前に歩哨として配置せるが上海事件の记憶尚新たなる際斯かる措置は既に南京の昂奮せる人民をして同样事件发生せざるやとの恐怖の念を生ぜしめたるならんと称す。
调查团は南京警察署長が外交部長に提出せる報告に依り南京の支那住民及外国人の保护に全責任を有する南京当局が日本水兵の上陸に对し忿满を抱き居たる旨を知れり。南京当局は日本副领事に对し数度抗议をなせるが同副领事は右上陸に关し何等の処置を執り得ざる旨答えたり当時軍舰碇泊し居り上记埠頭の存する下关の地方警察署に对し出来得るならば同方面に於ける日支接触殊に夜間に於ける如何なる接触をも阻止する样特别の训令发せられたり。日本側公報に依れば日本人避难民は2月29日以後日清汽船会社の一汽船船內に収容せられ其の多数は上海に送られたる由なり。日本側は2月1日深更三发の砲弾突如发せられたるが右は獅子山砲台よりなされたるものと认めらるる旨述べ居たり。右と同時に支那軍正規兵は河畔にありし日本海軍歩哨に向かい发砲し二名を負傷せしめたるか其の中一名は死亡せり。右攻撃に对し反撃加えられたるが右は歩哨上陸地点直近の箇所にのみ向けられ岸より发砲止むや直ちに停止せられたり。以上は日本側の述べる所なるが支那側は之に对し发砲の事实を否定すると共に日本側より砲台、下关停車場及其他の場所に合计八发の砲弾发せられ且機关銃及小銃射撃行われたる旨并びに右の間サーチライトが岸に向けられたる旨主張す。右は住民に多大の恐怖を生ぜしめ住民は南京市內部に急遽引移れるが死傷者はなく物質的損害も大ならざりき。
南京事件が昂奮せる支那人民が上海支那軍勝利の虚報を祝いて鳴らしたる爆竹に端を发したりと云うことも亦有り得べきことなり。