第四章 1931年9月18日当日及其後に於ける满州に於いて发生せる事件の概要
事件突发直前の事態
前章において满州に於ける日支两国利益の关係漸次緊張し来れるを述べ之が两国軍部の態度に及ぼす影响を述べ置きたり。既に相当期間或種の內部的、经济的及政治的要因が日本国民の满州に於て再び「積极政策」に出づるに备えつつありしことは疑いなきところなり。軍部の不满、政府の財政策、全て政党に对して不满の意を表明し、西洋文明の妥協的方法を蔑視して古代日本の道徳に依存することを主張し又財界及政界の利己的方法をも非とする軍部、農村落及国家主義的青年の間より醸成せられたる新政治勢力の出現、物価下落が主要生産者をして其の境遇を缓和せんが為に冒険的外交政策に望みを嘱するの傾あらしむるに至れること、事业界の不况が工业及商业界をして一层強硬なる外交政策により取引改善すべしと信ぜしむるに至れること、之等の事情は何れも何等实绩を挙げ得ざりし对支幣原「妥協政策」放弃への道を開きつつありたるものなり。而して日本国內におけるかかる焦燥の念は在满日本人の間にありて一层甚だしく夏期を通じて通じ同地方の不安漸次加はりたり。9月に入るに及び右不安の遠からずして破裂点に達すべきことは慎重なる观察者の均しく认め得る点に達したり。而して两国の新聞は世论を沈静せしむるよりは寧ろ之を煽動するに傾けり。東京に於いて陸軍大臣が在满陸軍に直接行動に出でんことを勧告して激越なる演说を為せる旨報道せられたり。就中支那当局が中村大尉殺害事件につき满足なる调查及救济をなすを迁延せるは在满日本軍少壮将校を激昂せしめ彼らは同样無責任なる支那将校が道路、料理店其の他相接触せる場所において無責任なる言辞及誹謗を弄するに对して明らかに敏感となり居たり。斯くして次いで来るべく事件の舞台の準备整いたる次第なり。
九月十八日—夜十九日
9月19日土曜日朝、奉天市民の醒むるや同市日本軍の手中に帰したるを发見せり。夜中砲声を聞きたるも之は别に异とするに足らず日本軍は小銃及機关銃の猛射を含む夜間演習をなし来れることとて右の如きことは其週間連夜のことなりき。9月18日当夜は大砲の轟き及び砲弾の音の為之を识别し得たる少数のものが恐慌を感じたるは事实なるも市民の大部分は砲声を以て単に日本軍演習の再開に过ぎずとし恐らく、平常よりやや騒々し位に考えたり。
後述の如く殆全满州の軍事的占领に導きたる運動の第一歩として本事件の頗る重大なるを认め调查团は同夜の事件につき广汎なる调查を遂げたり。日支两軍关係指揮官公式陳述の頗る重要且興味あるは勿论なり。日本側は本事件を最初に目撃せる河本中尉北大营攻撃に当れる大队の指揮官島本中佐及城內を占领せる平田大佐により说明せられたり。吾等は又关東軍司令官本庄中将及若干参谋将校の证言を聴取せり。支那側主張は北大营支那軍指揮官王以哲之を说明し之が補足として彼の参谋長并軍事行動中現場にありたる其の他の将校の個人的谈话ありたり。吾等は又張学良元帥并参谋長栄臻将軍の证言を聴取せり。
日本側の说明
日本側说明によれば河本中尉は兵卒六名を率い9月18日夜、警戒任務を受け奉天北方の南满州铁道线路に沿いて防禦演習を行いつつありたり。彼等は奉天の方向に南進しつつありたるが同夜は天晴れたるも暗夜にして視界广からず。彼等が小道が线路を横断せる地点に達せる時やや後方に当りて爆发の大音响を耳にせるを以て方向を転じて走り還えりたる処、约200ヤード行きたる地点にて下り线軌道片方側の一部分が爆破され居るを发見せり。右爆发は二軌道接合点に起これるものにして两軌道の尖端は全く引き離され之が為め线路に31インチの間隙を生じたり。爆破点に達するや歩哨队は线路两側の畠地より砲撃されたるを以て河本中尉は直ちに部下に对し展開応战すべきを命じたり。此処に於て约五、六名と覚ひしき攻撃队は射撃を止め北方に退却せり。日本歩哨队は直ちに追撃を開始したるが约200ヤード前進せる処にて约三、四百名に達する一层有力なる部队の為め再び射撃せられたり。河本中尉は此の有勢なる部队に包围せらるるの危険あるを认め部下の一名をして约1500ヤード北方に於て同样夜間演習中の第三中队長に報告せしめ同時に他の一名をして(現状付近にある電话筒により)在奉天大队本部に救援を求めしめたり。
此の時長春发南下列車の接近しつつあるを聞きたるが列車が破損线路に到達して破坏すべきを恐れ日本歩哨队は交战を停止し列車に警告を与えんが為め线路上に音响信号を设置せり。而るに列車は全速力にて通过し去りたり。列車は十時半奉天着の筈にて定刻どおり到着せるより見れば河本中尉の初めて爆发を聞きたるは十時过ぎなるべしと同中尉は语りたり。
次いで战闘再開せられたるが第三中队を揮ゆる川島大尉は既に爆发を聞きて南下の途中河本中尉の使者と遭遇し之が案內にて現場に向かい约十時五十分到着せり。一方大队長島本中佐は電话に接するや直ちに奉天にありたる第一及第四中队に現場に向かうべきを命じ又一時間半の距離にある撫順駐在の第二中队に对し出来得る限り速やかに之に加わるべきを命じたり。右の二中队は奉天より汽車にて柳条溝に至り次いで徒歩にて現場に向かい夜半到着せり。
河島中队の援助を受けたる河本歩哨队が繁茂せる高粱の葉陰に潜む支那軍の射撃を受けつつある際右の二中队奉天より到着せり。
島本中佐は其兵力五百に过ぎず而して北大营支那軍一万に及ぶと信じたるに拘らず彼の吾人に语りたつところによれば彼は「攻撃は最大の防禦」なりと信じ直ちに营舎の攻撃を命じたり。线路、营舎間约250ヤードの地面は水溜りの為め集团にて横断すること困难なりしが支那軍が右地面を越え撃退されつつある際、野田中尉は第三中队の一部を以て彼等の退路を断つ為に铁道に沿いて進出することを命ぜられたり。日本軍が煌々と点燈しつつありたりと伝えらるる北大营舎に到達するや第三中队は攻撃を行い左翼隅占领に成功せり。右攻撃に对し营內支那軍は頑強に抵抗し激战数時間に亘れり。第一中队は右翼を第四中队は中央部を攻撃す。午前五時、营舎南門は其の直前にある付属家屋內に支那軍の支那軍の放置せる大砲よりの二弾に依りて破坏せられ同六時、全兵舎占领せられたるが日本側兵卒死者二名傷者二十二名を出せり。兵舎建物中には交战中火災を发したるものありたるが残余は19日朝、日本軍により焼き払われたり。日本側にては支那兵三百二十名を埋葬せるが負傷者は二十名を发見せるに过ぎずと陳述せり。
一方、他の地点においても同样に迅速且徹底的に軍事行動实施せられたり。平田大佐は午後十時四十分頃、島本中佐より南满州铁道线路支那軍の為め破坏せられたるを以て将に敵軍攻撃に向はんとする旨の電话を受けたるが、同大佐は島本中佐の行動を是认し自ら城內攻撃に当るべきを决定し、午後十一時三十分までに軍队の集合を完了し攻撃を開始せり。而して何等の抵抗も受けず時々市街上に战闘ありたるも主として支那警察队との間に行われたるものにて之が為め支那側巡警の間に死者七十五名を生じたり。午前二時十五分、市の城壁を乗越し三時四十分之を占领せり。午前四時五十分、彼は第二師团本部及第十六連队一部午後三十分遼陽を出发せる旨の情報に接したるが右軍队は午前五時直後到着せり。而して午前六時、東部城壁の占领を完了し兵工廠及飛行場は七時半占领せられ、次いで東大营を攻撃し午後一時战闘を見ずして之を占领せり。之等の行動による死傷数は、日本側傷者七名、支那側死者三十名なり。
当日宛も検閲より帰来せる本庄中将は午後十一时頃新聞记者よりの電话にて初めて奉天に起こりつつある事件の報道を接受せり。参谋長は奉天特務機关より午後十一時四十六分電话にて攻撃の状况につき仔细の報告を受け次いで遼陽、营口、鳳城にある軍队に对し直ちに奉天出動を命令せり。舰队は旅順を出发して营口に赴くことを命ぜられ在朝鮮日本軍司令官は援軍派遣を求められたり。本庄中将は午前三時半旅順を出发し正午奉天に到着せり。
支那側の说明
支那側の说明によれば、日本軍北大营攻撃は何等挑发によるものに非ずして全然奇襲に出たるものなり。9月18日夜、第七旅全軍约一万北大营にありたり。9月6日、張学良元帥より当時の緊張せる状態において日本軍との衝突は一切之を避けんがため特别の注意を為すべき旨の训令(北平において调查团に示されたる電文下の如し。「日本との关係頗る機微なるものあるを以て彼等に接する際には特に慎重なるを要す。如何に彼等に於いて挑战するも吾人は特に隠忍し断じて武力に诉うることなく以て一切の紛争を避くるべし。貴官は秘密且即時全将校に命令を发し右の点につき彼等の注意を喚起すべし。」)を接受せるを以て兵营城門の衛兵は木小銃を携帯したるのみにて任務に服したり。而して同样の理由に依り兵营周围土壁內の铁道线路に導く西門は閉鎖せられ居たり。9月14、15、16、17日夜、日本軍は兵营付近において夜間演習を行い、18日夜午後七時には文官屯なる一村落にて演習しつつありたり。午後九時、将校劉某は通常の型の機关車を有せざる三、四輌の客車よりなる列車が同地に停車せる旨を報告せるが、午後十時爆发の大音响あり之にいて銃声を聞きたり。依りて直ちに電话により参谋長より之を兵营南方六、七哩铁道线路近くの私宅にあるたる司令官王以哲に報告せるが参谋長が尚電话中日本軍の兵营を攻撃しつつある旨并衛兵二名負傷せる旨の報道あり。十一時頃より兵营西南隅に对する総攻撃開始せられ十一時半、日本軍は城壁の隅より侵入し来れり。攻撃開始せらるるや参谋長消燈を命じ再度王以哲に電话にて報告せる処、王は抵抗すべからざる旨を答えたり。十一時半、南西及半西方向遠方よりの大砲の音を聞きたるが夜半に至り兵营內に砲弾落下し始めたり。退却中の第六百二十一团軍南門に達するや日本軍が同門を攻撃し居り守备兵撤退中なりを以て同軍は日本軍の內部に侵入する塹壕內に逃避し、然る後南門を经て逃るることを得约午前二時頃、营舎東方の二台子村落に到着せり。他軍は東門及東門外直前の空舎を经て逃れ遂に三時より四時の間に同村落に達するを得たり。
唯一の抵抗は北東隅建物及其の南方第二位建物內にありたる第六百二十团の试みたるものなり。同团長は日本軍が午前七時南門より侵入し来るや支那軍は建物より建物へと逃れ日本軍をして空虚なる建物を攻撃せしめたる旨述べ居れり。支那軍主力撤退後日本軍は東方に向かい東方出口を占领せり。斯くして第六百二十团は連络を绝たれたるを以て自ら战いて活路を開くの他なきに至れり。彼等は午前五時に至り突破を试みたるが全然脱出し得たるは午前七時なりき。之れ营舎內に起これる唯一の实战にして死傷の大部分も之が為めなり。本团が最後に二台子村落に到着せる部队なり。
支那軍は全部集合するや19日早朝、直ちに同村落出发、東陵に向かい次いで同地より吉林近傍の一村落に至りて冬衣の支给を受け又王大佐を派し熙洽将軍より軍队の吉林入市を求めたり。在吉林日本土向林日本土留民は支那兵の接近に恐れを抱きたるを以て即刻長春四平街及奉天より吉林に援軍派遣せられたるが之が為め支那軍は再び奉天方面に向かうこととなれり。彼等は奉天外十三哩の地点に下車し九队に分かれ、夜間奉天を迂回行軍せり。日本軍の发見を免れんが為め王以哲自ら農民に仮装し市中を乗馬にて通过せり。朝に至り日本軍は彼等存在の報に接し飛行機を发して之を爆撃せるを以て彼等は昼間隠遁するの己むなかりしも夜間は進軍を行し遂に京奉线の一駅に達し此処にて七列車を命じ之により10月4日山海关に達したり。
调查团の意見
以上は所谓9月18日事件につき两国当事者の调查团に语れるところなり。二者相异なり矛盾しをるは明らかなるが之れ其の事情に鑑み别に异とするに足らざるところなり。
事件直前の不安状態并興奮を考え又利害关係者の特に夜間に起これる事件に关する陳述には必ずや相异するところあるべきを认め吾等は极東置在中事件发生当時又は其直後奉天にありたる代表的外国人に出来得る限り多数会見せるが其の內には事件直後現地を观察し又先ず日本側の正式说明を与えられたる新聞通信員其他の人々あり。利害关係者の陳述と共に斯かる意見を充分に考慮し多数の文書資料を熟読し又接受若しくは収集せる幾多の证绩を慎重研究せる结果调查团は左の结论に達したり。
日支两軍の間に不安気分の存在したることに付いては疑うの余地なし。证拠につき调查团に说明せられたるが如く日本軍が支那軍との間に於ける敵对行為起こり得べきことを予想して慎重準备せられたる计画を有し居たるが9月18—19日夜、本计画は迅速且正確に实施せられたり。支那軍は一八七页/1に言及せる训令に基づき、日本軍に攻撃を加え又は特に右の時及場所において日本人の生命或は財産を危険ならしむるが如き计画を有したるものに非ず。彼等は日本軍に对し連繋ある又は命令を受けたる攻撃を行いたるものに非ずして日本軍の攻撃及其の後の行動に狼狽せるものなり。9月18日午後十時より十時半の間に铁道线路上若しくは其付近において爆发ありしは疑いなきも铁道に对する損傷は若しありとするも事实長春よりの南行き列車の定刻到着を妨げざりしものにて其れのみにては軍事行動を正当とするものに非ず。同夜における叙上日本軍の軍事行動は正当なる自衛手段と认むることを得ず尤も之により调查团は現地に在りたる日本将校が自衛の為め行動しつつありと信じつつありたるなるべしとの仮说を排除せんとするものには非ず。尚爾後の事件につき述べざる可からず。
日本軍队の移動
9月18日夜、在满日本軍は左の如く分布せられ居たり。上述の如く北大营の攻撃に参加せる铁道守备大队四中队及奉天城市を占领せる平田大佐部下の第二師团第二十九連队の他、第二師团残部は各地に分散され居り第四連队本部は長春、第十六連队本部は遼陽、第三十連队本部は旅順にあり。而して之等を各連队に关する他部队は安東、营口、南满州铁道の長春—奉天线及奉天—安東线沿线幾多小都市に駐屯せり。又铁道守备队一個大队は長春にあり又铁道守备队は上记各小都市に第二師团と共に分布され居れり。最後に朝鮮警备軍ありたり。
在满全軍及朝鮮軍幾分は9月18日夜、長春より旅順に至る南满州铁道全域に亘り殆ど同時に行動を開始せり。其全勢力左の如し。
第二師团 | 5400 | 野砲16門 |
铁道守备队 | 約5000 | |
憲兵 | 約500 |
安東、营口、遼陽其他の小都市にある支那軍は為す所を知らず無抵抗に武装を解除せられたり。铁道守备队及憲兵は之等の場所に留まり第二師团部队は直ちに奉天に终结してより重要なる行動に加われり。第十六及三十連队は早く到着して平田大佐に合して東大营の占领を援助せり。第二十師团所属三十九混成旅团(兵四千及砲兵)は19日午前十時、朝鮮国境新義州に终结。21日鴨绿江を越え夜半奉天に到着し同地より分遣队は郑家屯及新民に派遣せられ22日之を占领せり。
九月十八—十九日長春占领九月二十一日吉林占领
兵约一万、大砲四十門を有する長春に於ける寛城子及南岭支那兵营は9月18日夜、同地駐屯の第二師团第四連队及第一铁道守备大队(長谷部少将指揮下にあり)により攻撃せられたるが同地にては多少支那軍の抵抗ありたり。夜半战闘開始され南岭兵营は19日午前十一時、寛城子兵营は同日午後三時占领さる。之による日本側全死傷は死者将校三名及兵卒六十四名、傷者将校三名、兵卒八十五名なり。奉天の战闘终了と共に第二師团の各連队は長春に集结せられ、多門中将及参谋部。第二十連队及野砲兵一大队は20日又天野少将指揮下の第十五旅团は22日到着せり。吉林は21日发砲を見ずして占领され支那軍は约八十哩外に移されたり。
当時日本の半官出版物たりし「ヘラルド·オブ·エシア」は軍事行動は之にて完了せるものと思考せられ之以上軍队を移動することは予期せられ居らざる旨述べ居れり。爾後に於ける軍事行動は支那の挑发によるものとせられ20日、間島に於ける反日游行、龍井村における停車場爆破及9月23日哈爾賓において数個の爆弾破裂したるも日本側建物には損傷なかりし事件等が斯かる挑发の例として挙げられ居れり。且馬賊の漸次跳梁しつつあること及敗残兵の活動等につきても抗议せられ居れり。而して之等の事情により日本軍は其の意に反して新たなる軍事行動を起こすに至れるものなりと主張せられ居れり。
錦州爆发
之等行動の第一は、10月8日の錦州爆撃なるが同地は9月末、張学良が遼寧省政府を移転せる処なり。日本側の云うところによれば爆撃は主として政庁事務所の设置されたる兵营及交通大学を目標とせる由なるが兵力に依り政庁を爆撃するは正当とすることを得ず且又爆撃区域が事实日本側主張の如く制限せられたりや否や疑問の余地あり。支那政府の名誉顾問米国人ルウイス氏は、10月12日、錦州に到着し其見聞せるところを顾博士に申送り顾博士は後に参与人の資格において其情報を调查团に伝達せるがルウイス氏の云うところによれば兵营には全然异常なく爆弾の大部分は市內至るところに落下し病院及大学建物にも落下せる由なり。爆撃機指揮官はその直後新聞记者に对し長春よりの四機は八日午前八時三十分、奉天に向かう旨命令せられたる由を告げたるが、同地にて右四機は他機と合流し、偵察機六機爆撃機五機の一队は爆弾及燃料を满載して直ちに錦州に派遣せられ、午後一時到着十分乃至十五分以內に爆弾八十個を投じ直ちに奉天に帰還せり。ルウイス氏の谈によれば支那軍は応战せざりし由なり。
嫩江橋頭战闘
次の行動は橋頭において行われたるものにして10月中旬開始せられ、11月19日、日本軍の齊々哈爾占领に了れるものなり。之に对し日本側の理由として挙ぐるところは馬占山により破坏せられたる橋梁の修理中、日本軍が攻撃せられたりと云うにあり。然れども之れ以上に遡りて陳述し橋梁破坏につき说明するの要あり。
10月初め、嘗て馬占山、萬福麟と同地位を保有し彼等に代わりて黒龍江主席たらんとせしことある洮南守备队長張海鵬は明らかに強力により省政府を奪取するの目的を以て洮南—昂々渓铁道に沿い進出を開始せり。支那側参与員提出文書第三号には、進出が日本側の煽動によるものとなし居れるが中立の方面より得たる情報もこの見解を支持し居れり張海鵬軍の進出を防止せんがため馬占山は嫩江橋梁の破坏を命じ两軍は广大且沼沢地たる同河流域を隔てて相对峙せり。
洮昂线は南满州铁道提供の資本により建设せられ右线路は借款の担保とされ居るを以て南满州铁道当局は北满よりの農産物運搬の特に必要なる時に当り同线の運輸妨害をくることは许す可からずと感じたり。在齊々哈爾日本総领事は政府の训令により10月20日齊々哈爾に到着せる馬占山に对し成るべく早く橋梁の修理をなすべきを求めたるが、右请求には期限は付せざりき。日本当局は交通途绝により張海鵬軍を一定距離外に止め得べきを以て馬占山としては出来得る限り橋梁の修理を迁延するものと信じ居りたり。10月20日、洮昂线及南满州铁道使用人の一队は軍の护衛によらず橋梁破損の观察をなさんとしたることろ、予め黒龍江省軍将校に说明し置きたるに係らず射撃せられたり。之が為め事態悪化したるにより10月28日、在齊々哈爾本庄中将代表者林少佐は11月3日に橋梁修理の完成を要求し若し同日に实行されざるにおいては南满州铁道修理員が日本軍保护の下に之に当るべき旨を述べたり。支那当局は期限の延長を求めたるも右要求には何等の回答なく、右修理事业遂行保护の目的をもって日本軍四平街より派遣せられたり。
11月2日交涉は進捗せず何等の决定を見ざりき其の日林少佐は馬占山将軍及張海鵬将軍に对して两軍何れも铁道を作战上の目的に使用すべからざること及各自の軍队を河の两側より10kmの地点に撤退せしむべき旨の通牒を手交せり。
右通牒は若し右两将軍の何れかが南满州铁道会社の技術員の铁橋修理を妨害するときは日本軍は之を敵軍と見做すべき旨を表明し11月3日より効力を发生することとなり居りたり。而して日本救援队は其の峡谷の北側なる大興に11月4日に到着すべき命令を受け居りたり。中国参与員(第三号文書)在齊々哈爾日本総领事及第二師团の将校は何れも馬占山将軍は中央政府の训令有る彼の独断を以て仮日本軍の要求に応ずべき旨回答越せりとの意見に一致せり。然れども一方日本側の证人は馬将軍が破坏されたる橋梁を迅速に又は有効に修理することを许す意無きことを明白なりしを以て其の诚意を信ぜざりざきと付言したり。11月4日に於いて日本総领事館代表者林少佐中国将校及官吏を含む共同委員会は二度も敵对行為の開始を防止するため橋梁に赴き且中国代表者は日本軍の前進を延期方依頼せり。右要求は容れられず歩兵第十六連队長濱本大佐は彼の命令通り其の連队中の一個大队、野砲兵二個中队及一個中队の技術員を率い日本軍の最後通牒条項に従い修理作业開始のため橋梁に前進せり。技術員は花井大尉の指揮の下に11月4日の朝作业を開始し歩兵一個小队は同日正午に二箇の日本国旗を押し立てて大興駅に向かい前進を開始せり。
战闘は实際においては前记共同委員会が再度努力をなし居りたる最中、即ち11月4日の昼过ぎ中国軍を撤退せしむべく最後の努力を试みたるため再度現場に赴きたる際開始せられたり。发砲の開始せらるるや濱本大佐は彼の部下の頗る苦战の状况に在るを曉り其の用うべき全兵力を率いて之が救援に赴けり。彼は直ちに全面は沼地なる為め正面攻撃は不可能にして此の苦境を脱するには敵の左翼を包围攻撃するより他に方法なしと信じたり。仍て彼は其の補充中队を分派して敵の左翼の占拠せる丘陵を攻撃せしめたるも兵力の寡少なると砲の有効射撃距離充分接近せしむることを得ざりしたる黄昏には右地点を占领するを得ざりき。丘陵は午後八時三十分に占领せられたるも同日は夫れ以上の前進不可能なりき。
关東軍司令部は状况の報告を受くるや直ちに強力なる増援部队を派遣し歩兵一個大队はその夜の裡に到着したるを以て同大佐は11月5日未明攻撃を再開するを得たり。数時間後支那軍の第一线に到着せる時においても依然として约七十余挺の自動機关銃及機关銃を以て防禦せる塹壕に拠る頑強なる敵兵に遭遇せることは同大佐自身の委員会に对して陳述せる所なり。彼の攻撃は阻止され中国軍の歩兵、騎兵の包围逆襲に遭い彼の部队は多大の損害を蒙りたり。日本軍は己む無く退却し夜に入るその陣地を支えるほかなかりき。11月5日より6日に亘る夜間において新に二個大队到着せるを以て日本軍は苦境を脱するを得、6日中国軍の全线に亘り攻撃を再び開始し、同日正午に大興停車場は日本軍の掌中に帰したり。
濱本大佐の使命は橋梁修理援护の為大興駅を占领するに在りたるを以て退却する中国軍を追撃せざりしも日本軍は停車場付近に留まれり。中国参与員は前记第三号文書中に林少佐は11月6日黒龍江省政府に对して新に(1)馬占山将軍は張海鵬将軍のために省主席を辞職すること(2)治安维持委員会を组织すべきことを要求せる旨を主張し居れり。林少佐の是等要求を含める書簡の真贋は聯盟调查委員に呈示せられたり尚右文書は11月7日、日本軍は黒龍江省の回答を待たずして当時大興の北方约二十哩の三軒房に駐屯せる同省軍に对して新に攻撃を開始せること及11月8日、林少佐は再応書簡を送り馬占山は張海鵬に代わるため黒龍江省政府主席を辞職すべく之に对しては同日夜半に回答すべき旨の要求を缲り返したることを述べ居れり。更に中国側の報告に依れば11月11日、本庄将軍自ら電報を以て馬占山将軍は辞職の上齊々哈爾を撤退すべきこと、日本軍の昂々渓前進の权利有ることを要求し、之に对する回答も同样同日に回答すべき旨を要求したり。11月13日、林少佐は第三回要求中に日本軍は昂々渓のみならず齊々哈爾停車場をも占领すべしとの一項を増加せり。馬占山将軍は其の回答中に齊々哈爾停車場は洮昂铁道と何等無关係なる旨を指摘せり。
11月14日及15日、日本混成部队は飛行機四機の援护の下に攻撃を再開せり。11月16日、本庄将軍は馬占山将軍は齊々哈爾の北方に退却すること、中国軍队は東支铁道以北に撤退すること、如何なる方法に依るを問わず洮昂铁道の交通運輸を阻害せざることを保证すること、是等の要求は同月15日より十日間に实行せらるべきこと、右に对する回答は在哈爾賓日本特務機关に送付すべきことを要求せり。馬占山将軍が右要求を容るるを拒むや多門将軍は11月18日、新に総攻撃を開始せり。馬占山将軍は最初齊々哈爾に退却せるが同地は省政府行政官署を移転せり。現場において指揮せる日本軍诸将の证言に拠れば、右新軍事行動は11月12日以前に於いては開始せられたること無しとの趣なり。当時馬占山将軍は既に麾下軍队二万を三軒房の西方に集中し黒龍江省屯墾軍及丁超将軍の軍队も集めたり。益々威嚇的態度を示せる之等大部队に对して日本軍は天野、長谷部两将軍麾下の二個旅团より成る近々漸く集中せる多門師团のみを以て对抗し得るのみなりき。此の緊張せる事態を救う為11月12日、本庄将軍は全黒龍江省軍は齊々哈爾の北方へ撤退し日本軍をして北進し洮昂铁道を守备するを得せしむべき旨を要求せり。11月17日、支那軍が其の騎兵部队をして日本軍の右側を包围攻撃せしむるまで日本軍は前進を開始せざりき。多門将軍は委員会に对し彼の部队は歩兵三千、野砲二十四門より成る小部队に过ぎざりしも敢えて支那軍を攻撃し11月18日、完全に之を撃滅したる结果、同19日朝、齊々哈爾を占领したりと述べたり。一週間後第二師团は馬占山軍に对抗し齊々哈爾を防守せしむる為天野将軍を歩兵一個連队、砲兵一個大队と共に同地に残し原駐地に帰還せり。此の小部队は後に新に编成せられたる「满州国」軍队の増援を得たるも吾人が1932年5月、齊々哈爾を访問せる当時は未だ馬占山将軍の軍队に对抗し得と认むるを得ざりき。
項中の付属軍事状况地図第三号は、聯盟理事会第一回决议当時に於ける双方の正規軍の配置を示す。当時特に遼河東西及間島地方に出没せる武装解除兵及匪賊に关し叙述せられ居らず双方互いに匪賊を使嗾せる旨を非难し合い居れり。即ち日本側は支那側において满州の失地の秩序を攪乱せんとする動機より之を使嗾すと言い支那側が支那の国土を占领し益々其の軍事行動を拡大すべき口实を发見せんため之を使嗾せりと言う。是等無頼の徒の勢力及其の軍事的価値は頗る漠然活不定なるを以て右軍事状况図解の中に其の重要性の正確なる评価を记入することは不可能なるべし。同地図は東北軍の指揮官が遼寧省の東西地方において着しく強力なる部队を组织したるを示し居れり。此の部队は日本軍の最前线に間近き大凌河の右岸に強力なる塹壕陣地を建设するを得たり。斯かる形勢が日本軍当局をして右部队の正規軍の全兵力は三万五千人或は当時日本が满州に於て有すと认められたる兵力の约二倍なりと评価し、相当の不安を感ぜしめたるは無理からざることならん。
天津事变
本事变は11月中、天津に於いて惹起せる或事件の结果執られたる行動に依り发生せるなり。紛争の发端に关する報告は非常に相异なり居れり。
十一月八日の扰乱日本側の所見
11月8日及同26日の再度の攪乱ありたるが事件全体が极めて曖昧なり。「ヘラルド ·オフ·エシヤ」所載の日本側の说明に拠れば天津の支那住民が張学良元帥の支持者及其の反对者に分れ後者が11月8日、支那街において武装团体を组织し公安保持当局を攻撃し、政治的示威運動を為したりとの趣なり。右支那人两派間の紛争において日本軍司令官は最初より严密に中立を守りたるも日本租界付近の支那警衛队が日本租界に向けて矢鱈に发砲するに至るや己む無く日本側も砲火を開始せり。同司令官は交战中の支那軍に对し日本租界より300ヤード外に離るべき旨要求せるが事態は缓和せず极度に緊張したるを以て11月11日又は12日、一切の外国軍队警备を整うに至れり。
支那側の見解
天津市政府の陳述は右と頗る异なれり。彼らは日本側が支那人無頼漢及便衣队を傭いたるものにして是等は支那街に於いて事件を惹起せしむるため日本租界內において軍事行動を為す暴力团に编成せられたりと主張し居り幸いにして警察当局が其の谍報者より此の形勢の報告を受けたるを以て右無秩序なる暴徒が日本租界より闖入するを撃退せるが右暴徒中逮捕されたるものの自白により暴徒は日本租界において编成せられ日本製の銃器及弾薬を以て武装せることを证明するを得と述べ居れり。彼らは9日朝、日本軍司令官が其の部下数名流弾に依り負傷せるに对し抗议し300ヤード外に撤退すべき旨要求せることは认めたるも支那側において右诸条件を受诺せるにも拘らず日本正規軍队は支那街を装甲自動車を以て攻撃し且砲撃を加えたりと主張し居れり。天津市政府側は11月17日、300ヤード外に撤退することに关する详细なる付則を有する協定成立せる旨を述べ日本側は協定による義務を履行せざりしため事態は益々悪化せりと主張し居れり。
11月26日、凄まじき爆破聞こえ次いで直ちに大砲機关銃及小銃の发射起こりたり。日本租界の電燈は消され、同租界より便衣队現れ付近の公安局を襲撃せり。
十一月二十六日の事件の发端、相异せる報告
其の後起こりたる本攪乱に关する「ヘラルド·オブ·エシア」所載の日本側の報告によれば、26日事態頗る好転せるを以て日本義勇队を解散したる処、同日夕刻支那側は日本兵营に向けて发砲を開始し抗议せるにも拘らず27日正午に至るも发砲を中止せざりしが故に挑战に応じ支那軍と战うより他無かりきとあり。战闘は27日の午後和平交涉開催继せり。其の際、日本側は战闘の即時停止及支那軍队并びに警察队をして外国軍队の駐屯する凡ての地点より二十華里外に撤退すべきことを要求せり。支那側は、その軍队の撤退に同意するも同地方の外国人の安全に对する唯一の責任者たる警察队の撤退には肯ぜざりき。日本側の言によれば11月29日、支那軍側より日本租界付近より警察队を撤退すべき旨申越したるを以て之を容れたるが、支那武装巡警に29日朝撤退し30日防禦工事を除去せる由なり。
天津事件の满州の事態に及ぼせる影响
26日の天津における緊張せる状態は关東軍参谋をして司令官に对し危機に瀕する天津の小部队に对して錦州及山海关を经て直ちに増援部队を派遣すべしと提议せしむるに至れり。単に輸送上の問題としては増援队を大連を经て海路派遣する方、一层容易且迅速なりしならん。然れども战略上より考慮せんに右经路によれば前進部队をして途中錦州付近に集中せる邪魔になる支那軍队を片付けるを得せしむる利益ありたり。此の经路を執るも支那軍の抵抗は皆無又は殆ど無しと想像し得るを以て左程延着すとは思われざりき。右定義は容れられ、11月27日、一連の装甲列車、二機の飛行機遼河を越え支那国軍の前线を攻撃せるのみにて塹壕に拠る支那軍の撤退を開始せしむるに充分なりき。
装甲自動車队も亦陣地を变更せり。日本軍は抵抗のために装甲列車、歩兵列車及砲兵列車の数を増し兵力増強を為すに至れり。又日本軍はしばしば錦州に爆弾を投下せるも天津の事態好転せる報道達するや直ちに出動は本来の目的を失い、11月29日、日本軍队は新民屯へ撤退し、支那軍をして大いに驚异せしめたり。
当省の天津事件の他の结果は日本租界に居住し居りし前清皇帝が土肥原大佐と会谈の後、1月13日旅順より安全なる避难所を求められたることなり。
錦州占领
日本国の撤退せる地方は支那軍に依り再び占领せられ此の事实は广く宣伝せられたり。支那軍の士気稍々昴り、不正規兵及匪賊活動増大せり。彼等は冬期を利用し氷结せる遼河の诸所を渡り奉天付近地方を襲いたり。日本軍当局は現在の位置を维持するにさえも増援軍必要なることを语り是等援軍を以て錦州に支那軍の集合する危険を除かんことを希望するに至れり。
十二月十日の理事会决议承认に際する日本の留保
其の間、满州に於ける事態はジュネーブにおいても猶も论争の议題なりき。12月10日の决议を承认したるとき日本代表は「本項第二は日本軍が日本臣民の生命財産を满州各地において跳梁し居れる匪賊及無法なる徒輩の活動に对して直接保护を為すに必要なる行動を執ることを妨ぐる意図に出でたるに非ずとの了解」に基づき受诺するものにして斯かる行動は明らかに「满州に於て頻发し居れる特殊の事態のため必要なる例外的手段」にして同地方が「常態に復す時は不必要となるならん」と声明せり。之に对し支那代表は「紛争当事国に对して事態を拡大すべからずとの命令は满州に於ける現状に依り惹起せる無秩序状態の存在を口实として違反すべからず」と応答し、右讨论に列席し居りたる数名の理事は「日本臣民の生命財産に危険を及ぼすが如き事態发生すること有り得べく斯かる緊急の場合には其の付近の日本軍が行動するは己むを得ざるべきこと」を容认したり。
日本将校が本問題に关して委員に对し证言を提供したる際、该将校は常に12月10日の决议は「日本に对し」满州に於て「其の軍队を维持するの权利を賦与し」若は日本軍をして同地方に於ける馬賊讨伐の責に任ぜしめたりと主張せり。爾後の軍事行動を说述するに当り、日本将校は遼河付近において土匪軍に对し叙上权利を行使するに際し同時に錦州付近に残留せる支那軍队と衝突し其の结果支那軍队は关內に撤退せられたりと主張す。即ちジュネーブにおいて保留を為したる後日本が其の计画に拠り引き满州の形勢を処理せんとしたるは事实存す。
援軍の到着
齊々哈爾守备队を除き第二師团は奉天西方に集中せられたり。援軍は相次いで速やかに来着し第八師团の第四旅团は(兹に记載せる日本軍の部队の番号及兵力は総て日本側の公報に依る)12月10日より15日の間に到着せり。更に12月27日朝鮮より第二十師团司令部并びに一個旅团派遣の御裁可を得たり。又長春并びに吉林は差当り独立铁道守备队に依りてのみ保护せられたり。
支那軍队撤退に关する交涉の失敗
錦州に对する日本軍進撃が切迫せる為め支那外交部長は、三乃至四個師团が錦州北方及南方に中立地帯维持を保障するの意あるに於いては支那軍队の关內撤退を提议し以て战争の進展を阻止せんことを企図したるも、この提议は何等効果を収めざりき。一方北平において張学良と日本代理公使との間に交涉行われたるも之亦诸般の理由に依り失敗に终われり。支那側は其の调書第三号付属書「ホ」中に12月7日、25日、及29日に於ける访問の度毎に日本代理公使は支那軍队の退却に关する其の要求を増大し且つ日本軍の抑制に关する其の约束は益曖昧となれりと主張し居れるに对し、他方日本は支那の撤退に关する约束は决して真摯なるものに非ざりしと论难す。
錦州攻击
日本軍の集团的攻撃は12月23日を以て開始せられ而して支那第十九旅团は其の陣地を放弃するの己む無しに至れり。支那軍司令官は総退却の命令を发したるに依り、其の日より日本軍の進撃は整然として行われ殆ど何等抵抗を受けざりき。斯くて錦州は1月3日朝占领せられ、日本軍は山海关即ち長城直下に至るまで進撃をけ、同地に於ける日本守备队と恒久的接触を遂げたり。
張学良軍の完全なる满州撤退殊に相手に对し殆ど一撃をも加えずして撤退せるは長城以南の內部的情態と关係なかりしものに非ず。相拮抗する诸将领間に幡まれる確執に就きては前章に记述せる所なるが此の確執が当時终息せざりしことを记憶するを要す。
哈爾賓占领
山海关に至る進撃が比較的容易に遂行せられたることは日本をして其の軍队を原駐地より移動し之を他方面の進撃に使用するを得せしめたり。乃ち従来殆ど战闘の全局を担当せる第二師团の主力は休養の為め遼陽、奉天并びに長春の駐屯地に復帰したり。一方随所において受くる虞ある馬賊の襲撃に对し保护を加うべき铁道线路の延長は多数の軍队使用を必要とせるが、该軍队は斯くの如き广範なる地域に分駐せしむる為め其の战闘力は殺減せられたり。第二十師团司令部の隷下に在る二個旅团は此の目的に对し新占领地帯に残留せしめられ、而して第八師团の第四旅团は更に北方に於いて两旅团と連结したり。日本軍憲は此等の守备完全なる地域內においては安寧秩序は速やかに確立せられ而して爾後数週間に馬賊は遼河の两岸において殆ど其の影を潜むるに至れりと確言せり。此の声明は6月に余等に对し為されたるが而も本報告書を记述しつつある際に当り余等は義勇軍が营口并びに海城を盛んに侵攻し奉天及錦州をさえ襲撃せんと威嚇しつつある報道に接したり。
本年初頭に於いて最も紛乱を来たせるは哈爾賓の北方并びに東北地方にして该地方に於いては予て旧吉林及黒龍江政府当局の残存せる追従者が移動したり。该北方地域に於ける支那将领等は北平の本拠と若干の接触を保持し居たりしものの如く、北平より随時或る支援を受けたり。曩に齊々哈爾に对し行われたる如く、哈爾賓進撃は支那两軍間の遭遇战を以て開始せられたり。1月初旬、熙洽将軍は哈爾賓占领を目的とし北方に遠征軍派遣の準备を為せり。当時、吉林と哈爾賓間には反吉林軍と称せられたる軍队を率いる丁超、李杜两将軍幡距したり。我々の仮報告書が讨议に付せられつつありし際、日本参余員より北平当局の声援だに莫かりせば两当事者間の交涉に依り满足なる条件を设定し得べしとの情報を与えられたり。事实交涉は開始され而して交涉進行中熙洽将軍は麾下の軍队を率いて双城子に進撃し1月25日、同市を占领せるも翌朝同市南方隣接郊外において激战を交えるに及んで右進撃は忽ち阻止せられたり。斯くして发生せる形勢は在哈爾賓多数日本居留民并びに鮮人にとり大いに危険なるものと日本人をして思惟せしめたり。蓋し同市隣接地域における多少とも不正規なる二個の支那軍队の間の战闘は敗退せる軍队が同市に向け退却するの结果となりしならん。而して其の结果幾多の惨事を惹起したるべきは支那近世史上多くの实例を見るなり。故に至急救援の要请は关東軍に向け发せられ、日本人の確言する所に拠れば支那证人等すら其の財産の刧掠せらるべきを恐れ此の要请に賛同したりと言う。
此の危急時に当り日本特務機关事務局管理引继ぎの為め26日哈爾賓に派遣せられたる土肥原大佐(現時少将)は委員会に对し同市付近に於ける支那两軍の战闘は约十日間继し、而して脅威せららたる地区に主として居住せる四千の日本居留民及哈市郊外普家甸の支那街にありて虐殺の危険に曝され居りたる一千六百の鮮人に付多大の脅威存したりと述べたり。尤も反吉林軍は战争の行せられたる十日間、同市を保持せるも日鮮居留民の死傷数は比較的僅少なりき。其の際日本居留民は義勇队を组织し、同胞の郊外支那街より脱出し来ることを助けたり。同所を脱出せんとするに当り日本人一名、鮮人三名が虐殺されたりと云う。加之此の危急なる形勢偵察の為め派遣せられたる日本軍飛行機中の一機は、機关の故障の為め着陸を余儀なくせられ而して搭乗者は丁超軍の為めに虐殺せられたりと云う。叙上の事件は日本軍憲をして战闘に干涉するの决意を為さしめるに至り、第二師团は再び危険に瀕せる同胞救助の任務を帯ぶることとなれり。然るに其の際長春以北の铁道が露支合併たる关係上如何にして軍队を輸送すべきか、战闘よりも重要なる問題なりしなり。東支铁道の南部线における車輌は大いに減少し居たるを以て第二師团司令官は第一着手として僅かに長谷部将軍の率いる歩兵二個大队を派遣するに决し铁道当局と交涉を開始せるも该交涉迁延すべしと見るや日本将校は軍队輸送を強行するに决したり。铁道当局は之に对し抗议し列車の運転を拒绝したるも、其の反对に拘らず1月28日夜、日本軍憲は三個の軍用列車の仕立てに成功せり。右列車は松花江の第二铁橋北上し、同所において同铁橋が支那軍により破坏せられたるを发見したり。其の修理は翌29日に行われたるを以て日本軍は30日双城子に達したり。翌払暁、天未だ明けざる時、此の少数の日本軍队は闇に乗じて来襲せる丁超軍の攻撃する所となり、激战の结果、支那軍队は撃退せられたるも、其の日は前進すること能わざりき。此の間、露支铁道当局は日本軍队が単に在哈爾賓日本居留民保护の目的を以て前進しつつありとの谅解の下に、東支铁道に依る日本軍队輸送を许可する同意したり。是に於いて其の乗車賃は現金を以て支払われ、2月1日、日本軍队は々到着し第二師团の主力は2月3日朝、双城子付近に集结せられたり。更に援軍は既说の如く11月19日以来第二師团の一部が駐屯せる齊々哈爾よりも亦招致せられたり。而も哈爾賓齊々哈爾間の铁道は支那軍の為に破坏せられたるが故に猶幾多の困难を克服せるを要せり。支那軍は又同時に各処に於いて東支铁道南部线沿线の独立铁道守备队を攻撃したり。是れより先、2月3日、今や砲十六門を有し其の総兵力一万三千乃至一万四千と算せられたる友吉林軍は同市南方境界に沿いて塹壕陣地を構築したり。同日、第二師团は此の陣地に对し前進を開始し3日夜より4日に至る間に双城子の北方约二十哩の南城子河に達し、翌朝战闘は開始せられたり。4日夕、支那軍陣地の一部は日本軍の占领する所となり越えて5日正午に最後の始末を告げたり。哈爾賓は同日正午占领され、支那軍は三姓に向け退却したり。
一九三二年八月末の日本軍队行動の进展
第二師团の攻撃成功に依り哈爾賓市は日本軍憲の手に帰したるも右攻撃に次ぐに直ちに敗退支那軍の以て追撃を以てせざりし為め全局的には北支の形勢には何等し变化を齎さざりき。哈爾賓北方及東方の铁道并びに松花江の重要なる水路は依然反吉林軍及馬占山軍の支配に委せられたり。故に占领地域が北に於いては海倫、東に於いては方正、海林地方に拡大せらるる援軍の増派、当方并びに北方に向けての遠征軍の反復的派遣及六箇月に亙る战闘は行われたり。日本側の公表に依れば馬占山軍と合わせる反吉林軍は全く撃破せられたりと伝えらるるも支那側の公報に依れば同軍は今猶存在すと云う。其の战闘力は減殺せられたりと雖も反吉林軍は绝えず日本軍の行動を妨げ同時に战場に於ける实際的会战を回避しつつあり。新聞報道に拠れば東支铁道東部、西部两支线依然哈爾賓海林間の各所に於いて襲撃を受け破坏せらるるの現状なり。
2月初頭以来の日本軍の行動は次の如く略说するを得べし。
3月末頃第二師团の主力は丁超及李杜の反吉林軍讨伐の為め方正方面に向け哈爾賓を出发せり。同師团は三姓地方前進したる後4月初旬哈爾賓に帰還せり。此の部队は约一ヶ月間その主力を以て三姓付近において又その小支队を以て海林方面に於いて東支铁道東部线に沿い反吉林軍と不断の战闘に従いたり。
5月初旬、北满の日本軍は更に第十四師团の増援を受けたり。同師团の一支队は反吉林軍との战闘に参加し三姓の南方牡丹江渓谷に進出し敵对軍をして吉林省の最北方隅に退却するの余儀なきに至らしめたり。而も5月下旬に開始されたる第十四師团の主要行動は哈爾賓の東方地方に行われ馬占山軍攻撃を目的としたり。同師团は呼兰—海倫铁道に沿いて哈爾賓の北方まで主要なる攻撃を遂行し又小部队を以て齊々哈爾—克山铁道の终点たるべき克山より東方に向かいて攻撃をなせり。日本側は8月初旬、馬占山軍は再び有効に撃破せられ且つ馬占山が死亡せる確证を有すと主張するも、支那側は馬占山は今猶生存せりと確言す。此の战闘に於いては日本より新に到着せる騎兵部队も亦参加したり。
8月中、数回の小規模なる战闘は奉天熱河两省の境界主として铁道に依り熱河に至る唯一の途たる(京奉铁道の)錦州—北票支线付近に於いて行われたり。支那に於いては此等の战闘は単に日本分の熱河占领を目的とする一层大規模なる軍事行動の序幕に过ぎずとの危惧广く行なわる。今も猶支那本部と满州に於ける支那軍との間に存する主要交通路は熱河を貫通するを以て、既に「满州国」领土の一部と主張せらるる熱河省に对する日本軍攻撃の危惧は強ち兵稽の事に非ず。右攻撃の切迫せるは日本新聞の公然论议する所なり。
最近の事件に关し日本参与員が委員会に提出したる日本側の说明は左の如し。
石本と呼ぶ关東軍付官吏は7月17日、支那「義勇軍」の為め熱河省內に於いて北票錦州間に運転せらるる一列車より拉致せられたり。軽砲を有する日本軍の歩兵小部队は直ちに同氏救出を企てたるも其の目的を達する能わず。其の结果、日本軍は熱河省境の一村落を占领せり。
7月下旬并びに8月中、日本軍の飛行機は熱河の同地方上空を数回飛行し数個の爆弾を投下したるも而も慎重に「诸村落外の無住地域」をば選びたり。次いで8月19日、日本参谋将校一名石本氏釈放交涉のため北票と省境間に位する小都邑南岭に派遣されたるが少数の歩兵部队を随へて帰還の途中、同将校は射撃されたるを以て自衛上応战し他の歩兵部队の到着と共に南岭を占领せるが翌日同地を撤退せり。支那参与員は熱河省長湯玉麟の報告中より摘録せるものを委員会に提出せるが右報告は叙上战闘は遥かに大規模に行われ而して铁道守备队の支那兵一個大队は装甲列車に支持せられたる優秀の日本軍歩兵部队と交战したること并びに日本側の谓う所の爆撃は同地方大都邑の一つたる朝陽を目標とせること并びに其の结果、軍队及住民間に三十名の死傷を出せることを主張す。8月19日、日本軍の攻撃は一装甲列車の南岭攻撃と共に再び開始されたり。
日本参与員の提供せる情報の末尾に於いて熱河に於ける秩序の维持は「满州国国內政策の一事項たりと雖も日本は满蒙に於ける平和と秩序の维持に关し其の重要なる責務を有するに鑑み同地方の形勢に無关心なる能わず、且つ熱河に於ける如何なる紛乱も直ちに满蒙全体に重大なる反响を惹起すべき」ことを说叙す。
一方、湯玉麟は其の報告の末尾に於いて日本軍の攻撃再開せらるる場合は有効なる抵抗を為すべく、あらゆる可能的方法を採用しつつありと述ぶ。
此等の報告に顾みれば此の地方に於ける战闘地域の拡大は正に考慮せざるべからざる事項なり。
支那側の抵抗の性質
支那軍の主要部队は、1931年末、关內に撤退せられたるも日本軍は满州各地において绝えず不規則的なる抵抗に遭遇せり。会て嫩江に於て行われしが如き战闘は最早起らざりしも战闘は不断にして且广汎なる地方に亘りて诸所に之を見たり。日本人は現今自己に反抗するあらゆる部队をば無差别に「匪賊」と称するを常とせり。事实に於いては匪賊の他日本軍队若しくは「满州国」軍队に对する组织ある抵抗をなすものに截然たる二種别あり。即ち支那正規軍队并不正規軍队是なり。
右两軍队の兵数を概算するは至难にして、委員一行は依然战闘に従事しつつある何れの支那将领とも会見するを得ざりしを以て下记情報の確实性に就き留保を為すの必要あり。支那当局は满州に於て今猶日本軍に对する抵抗を持しつつある軍队に关する正確なる情報を与えるを欲せざるは当然なり。他方日本当局は自己に抵抗をけるある軍队の战闘価値を最小限度に局量せんとする傾向あり。
旧東北軍の残党
旧東北軍の残党は全く吉林黒龍江两省においてのみ之を看る。1931年末、錦州を绕りて行われし軍队の改编は是等の全ての部队が其の後关內に撤退せられたるを以て永せざりき。而も1931年9月以前松花江地方并びに東支铁道沿线に駐屯せられたる支那正規軍队は未だ嘗て日本軍と激战を交えたることなく、従来日本軍队并に「满州国」軍队に对し多大の困惑を与え今猶与えつつある奇襲战を继す。馬占山、丁超、李杜の三将领は此等軍队の指揮者として支那全土を通して盛名を博したり。右三将领は曩に北满に於ける护路軍若は駐屯軍の司令たりし旅長なり。恐らく其の麾下に在りし軍队の大半は各其の指揮者及張学良政府破坏後の支那の主張に忠诚を尽くしたるならん。馬占山の勢力は同将軍が其の忠诚を改变せるを以て容易に測定するを得ず。黒龍江省長として馬占山は省軍队全部を统率したるが余等に提示せられたる兵数は合计7個旅团を算せり。4月以降彼は日本并びに「满州国」に对し明らかに反对の立場を執れり。呼兰河、海倫、大平河間に在りて馬占山の有せし兵力は日本当局の概算に依れば六個連队即ち七千乃至八千なり。丁超并びに李杜は旧張学良軍の六個旅团を支配し且爾来同地方に於いて更に三個旅团を徴募し、仮報告作成当時は其の総兵力を约三万と概算したり。然れども馬占山軍及丁超、李杜軍は4月以来着しく其の兵数を減じ、現今叙上概算数以下に在りと看るは恐らく妥当ならん。
下段に记す如く此等两軍は哈爾賓占领以来日本正規軍の集中攻撃に依り大損害を被れり。現在两軍は日本軍の如何なる行動をも阻む能わずして努めて公然日本軍と会战するを回避す。日本軍の飛行機を使用するに反し支那軍が全然此の武器を欠如せることは従来支那軍の被りたる損害の大半の原因をなすものなり。
不正規軍を考慮するに当りては丁超李杜軍と協力したる吉林省各種義勇軍を区别すること必要なり。1932年4月29日の调查团仮報告に於いては调查团は第五項に義勇軍なる題下に三種義勇軍及七種の小集团を掲げたるが後者の一つは敦化及萬寶山間にありて丁超李杜軍队と連络を保ちつつあるものなり。右集团は之等地域における铁道及其他交通機关の欠如に依り今尚其地位を保持しつつあり。其の長たる王徳林は各種反「满州国」軍を集め之を堅く其の支配下に置き居れり。本集团は日本軍(日本軍は敦化以東においては何等活動を示し居らざるが)に比し其の重要さ僅少なるやも知らざるも「满州国」軍には对抗し得るが如く見え、吉林省の广き地域において其の地位を维保し居れり。
王徳林と連络を有し間島地方において相当妨害をなせる大刀会の現在の活動については何等確证を得られず。他方、日本軍は大刀会に对し何等重要なる軍事行動を執らざりき。
多数の所谓路軍及他の支那軍を掲记せる日本側の一公式文書、调查团に提出せられたり。右路軍及支那軍は各々二百乃至四百名より成り。右は義勇軍の小単位をなすものなり。之等支那軍の活動区域は奉天及安奉线付近の地区、錦州、奉天、熱河省境、東支铁道西部线及新民屯奉天間の地方に及ぶ。斯くの如く義勇軍及反吉林軍連合の占拠し居る地域は满州の大部分を含む。
8月中旬奉天近郊、南满州铁道の南段各地殊に海城及营口において交战行われたり。数度日本軍は苦战せるが義勇軍は何れの地においても何等重要なる勝利を得る能わざりき。满州の一般状態が近き将来に於いて何等か变更を見ること予想せらるべきや否やは疑わしきが如きも本報告完成の際には交战は广汎なる地域に亙り继せられ居れり。
匪賊
支那に於けると同样满州に於ても匪賊は常に存在したりき。職业的匪賊は政府の強弱に応じ其数或は大となり或は小となりて東三省の凡ゆる地域に存し、政治的目的の為め各党派に依り用いられたり。支那政府は调查团に对し最近二十年又は三十年の間に日本側の手先が其の政治的目的を遂ぐる為め非常に匪賊を使嗾せる旨述べたる書类を提出せり。右書类には南满州铁道出版の「1930年に於ける满州開发に关する第二回報告」の一節引用せられあるが右に依れば付属地內においてすら匪賊の数は1906年の九件より1929年の三百六十八件に増加したる由なり。上述支那側書类に依れば匪賊は大連及关東州よりの大規模の武器密輸に依り奨励せられたる由。例えば有名なる馬賊頭目凌印清は去年11月所谓独立自衛軍组织の為武器弾薬其他供给せられたる旨述べられあり。右自衛軍は三人の日本側手先の助力に依り组织せられ且錦州攻撃を目的とせるものなり。右企てが失敗せる後他の匪賊頭目が同样の目的の為日本側の助力を得たるが日本製品の材料と共に支那軍の手に捕われたり。
勿论日本官憲は满州匪賊に关し别種の見方をなし居れり。日本官憲に依れば匪賊の存在は全然支那政府の無能に基づくものなり。日本官憲は又張作霖は或程度其领土內に匪賊の存するを支持したりと称す。何となれば張作霖は非常時には匪賊は容易に兵卒に改编せられ得べしと思考したればなり。日本官憲は張学良政府及其の軍の完全なる打倒が大いに满州匪賊数を増加せしめたる事实を肯定する一方日本軍が满州に在る结果二、三年間に主要匪賊团は掃讨せられ得べき旨主張す。日本官憲は「满州国」警察及各部族に於ける自衛团の组织が匪賊を消滅せしむるに役立つべきことを望み居れり。現在の匪賊の多くは元来良民にして其の財産を凡て失いたる為め現在の職业に投ずるに至れるものと信ぜられ居れり。農工の业を再び营む機会あらば之等匪賊は従前の平和的生活に復帰すべきこと望まれ居れり。
(1) 编者按:即指本册文献集第526页的训令。