序文
アレクシス・ライト著、「地平線の叙事詩」‘Odyssey of the Horizon’という作品からは、さまざまな声が聞こえてくる。この物語の語りは、ライトならではの独特な形式で書かれている。まずこの作品では、過去の時間と未来の時間がともに、現在の時間の中に取り込まれている。作品にはユーモアと悲哀、希望と絶望、壮麗さと親密さ、詩と政治などが織り交ぜられ描かれている。著者は我われ読者に、先住民である彼女の先祖たちの声を、また彼女自身の声を、そして現代に生きる我われすべての人間の声を聞かせてくれる。読者はその声の中に、声にならない苦悩、抵抗の叫び声、力強い歌を聞きとることができるのである。
それはとても長い旅だった。彼女の作家としてのキャリアは 25年ほどだが、その間に 3冊の主要な小説、Plains of Promise 『約束の土地』(1997)、Carpentaria『カーペンタリア』(2006)、そしてThe Swan Book『スワン・ブック』(2013)を出版している。また 3冊の主要なノンフィクションの作品、Grog War 『グロッグ戦争』(1997)、Take Power, Like This Old Man Here『天下を取れ、この地のこの老人のように』(1998)、そしてTracker『追跡者』(2017)を出版し、その他の多くの短編やエッセイも世に出している。『カーペンタリア』は 2007年にマイルズ・フランクリン賞を受賞、『追跡者』は 2018年にステラ賞を受賞している。これらの賞はオーストラリアのトップクラスの文学賞である。彼女の作品は想像を絶するほど広範囲に及んでいる。また、彼女は新しい作品を書くたびに、自身の思想を表現するためのユニークな形式やスタイルを創り出している。彼女は現役の作家の中で、彼女が属する土地の物語を語ることのできる数少ない作家のひとりである。なぜならば、彼女が語っているのは、彼女のいう「数万年という途方もなく長い年月にわたって伝えられてきた」物語であり、その物語は共同体レベルと地球規模レベルの両方において、我われが直面する困難を乗り越えるための、非常に有益な意味や価値を示してくれるからである。
アレクシス・ライトは、北オーストラリアのカーペンタリア湾の南に位置する土地の、ワーニィ(Waanyi)族に属する女性である。彼女は 1950年にクィーンズランド州のクロンカリー(Cloncurry)に生まれた。後に中央オーストラリアのアリス・スプリングズに多年にわたって住み続け、先住民の権利獲得運動の活動家として、また社会運動家として行動してきた。現在はメルボルンに居住している。彼女の作品は、中国語を含め多くの言語に翻訳されており、ことに中国では『カーペンタリア』がリ・ヤオによって翻訳され、2012年のノーベル文学賞受賞者であるモウ・ヤンによって世に送り出された。
ライトは「地平線の叙事詩」ついて、「この本は、アボリジナルの世界に関係した物語であり、精神と魂がさまざまな配列によって複雑な構造を成している故郷を描写するために、いろいろな境界線を突き破っている」と解説している。彼女は世界中の作家たちから影響を受けている。たとえばアイルランドの詩人、シェイマス・ヒーニー(Seamus Heaney)、ハンガリーの小説家、ラースロー・クラ スナ ホル カイ(Laszlo Krasznahorkai)、ラテン・アメリカの作家、カルロス・フエンテス(Carlos Fuentes)やエ ドゥ アル ド・ガレ アー ノ(Eduardo Galeano)、そしてマルティニーク[1]出身のパトリック・シャモワゾー(Patrick Chamoisseau)やエドゥアール・グリッサン(Edouard Glissant)、その他、アラビア語、中国語、日本語を用いて作品を書く作家などからも影響を受けている。彼女の作品は、内容の統一性おいては世界文学に負うところが多く、彼女自身もまた作家として、世界文学へ重要な貢献をしている。
アレクシス・ライトの一連の作品は、先人たちの過去が典拠となっている。我われ読者は彼女の作品を読む時、彼女の先祖である長老たちに敬意を払う。ライトはその先人たちと読者の間の力強い仲介役となり、先住民であろうとなかろうと、現代そして未来の世代のすべての人びとに向けて、先人たちの物語が宝物であり財産であることを伝えている。
「地平線の叙事詩」はアレクシス・ライトの最新の作品であり、彼女の作品を初めて読む読者にとってよいスタートになるであろう。この作品は日本語と中国語に翻訳され、しかも翻訳者は私の友人たちである、アリミツ・ヤス エ(Arimitsu Yasue)とリ・ヤオ(Li Yao)である。この作品は、あるときは伝説、あるときはエッセイ、またあるときは詩という形式をとっている。そもそもこの作品は、視覚芸術家であるトレイシー・モファ ット(Tracy Moffatt)が、2017年にヴ ェニ スで開催されたビエンナーレのために作成した「私の地平線」(My Horizon)という作品に応える形で創作されたものである。作品の表紙は、ライトのご令嬢でありグラフィック・デザイナーのリリー・ソウェンコ(Lily Sawenko)によってデザインされている。この作品の中でライトが語る歴史は、ときに読者を感動させ、ときに読者の心をかき乱すものであるが、それはリフ[2]に似た美を感じさせる。その美のある部分は、作品が共同制作であることから生まれるもので、この作品の特質ともなっている。彼女の散文は、六つの連結されたセクションの中で重層的な時間の周期を、イメージと感情の力強い融合によってひとつにまとめあげている。たとえば、英国の「幽霊船」が 1788年にシドニー湾の水平線上に現れたとき、この物語の昔の時間では、「この土地に生まれた物語が、その物語を管理する人間たちによって継続的に新しく書き換えられて」おり、植民地時代に被った暴力に深く傷ついた彼らの記憶が何層にも重ねられ、次の世代の夢の中にも伝えられている。そして、「世界の歴史の中で引き裂かれた数百万人もの人びと」の行動も、その記憶の中に重ねられている。しかも、その中にはオーストラリアに新しい居住地を求めて訪れている名もない難民の子供たちも含まれている。これら子供たちの経験は、ライトの散文の中で一緒に流れているように、異なる時代の異なる経験が決してほどけることなく複雑に絡みあい、さらには詩と物語という異なる形式が繋ぎあわされ重なりあっているのである。著者のいう「悲しい歴史」は、人間の神話や伝説を通してこだまのように繰り返され、それはあたかも古代ギリシャの詩人ホーマーの終わることのない叙事詩が、21世紀にも継続されているかのようである。
この大変重要な作家の作品に読者を導いていく序文を書くことは、私にとってこの上ない喜びです。「地平線の叙事詩」は、必ず豊かな読書経験となることを確信しています。アレクシス・ライトが読者に語らなければならなかったことに、是非、耳を傾けていただきたい。
ニコラス・ジョーズ
2019年10月1日
[1] マルティニーク(Martinique):西インド諸島南東部、Windward諸島北部の島で、フランスの海外県。
[2] リフ(riff):ポピュラー音楽で、ソロ楽器やボーカルのバックとして使われる短い反復フレーズ。ブルースのテーマ部をいうこともある。