跨语言文化研究(第十五辑)
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3 有关日语敬语体系的思考

首先,就日语史的基本事实而言,自从有文献记载以来,日语史上并不曾存在过一个「絶対敬語」的时代。然而,现代日语的敬语是「相対敬語」的说法似乎不容置疑。那么,我们如何描述日语敬语史的历史进程呢?

事实上,所谓「絶対敬語」「相対敬語」,我们完全可以把它们的实质概括为“上·下的原则”与“内外的原则”。同时我们还要回避迄今为止的敬语史研究方法的误区,即不把某一时代的敬语体系单纯界定为某一单一的特征。

3.1“上·下的原则”与“内外的原则”

我们首先应该明确,我们这里提出的“上·下的原则”与“内外的原则”并不是仅仅为了取代「絶対敬語」「相対敬語」而引进的。通过上面的分析,我们发现,上代日语并不是仅一个「絶対敬語」可以描述的。我们只能把它描述成“上·下的原则”相对优势的敬语体系。从日语史发展的结果看,我们可以把现代日语的敬语体系概括为“内外的原则”优势的敬语体系。同时,考虑到日语敬语史发展的历史方向,我们就可以把它表述得更加周密。那就是,上代日语的敬语体系是“上·下的原则”相对优先于“内外的原则”的,而现代日语则是相反,是“内外的原则”绝对优先于“上·下的原则”的。[13]

那么,日语敬语中的「聞手尊敬」从无到有,其意义何在呢?

3.2「聞手尊敬」即指向听话人的敬语发生的意义及其相关现象

这个问题有两个方面,一是日语敬语中的「聞手尊敬」从无到有,其意义何在?一是这一类敬语何时发生,不只在日语敬语里听话人被重视的程度,在相关的语言现象里的同类项是何时形成的呢?我们现在可以就其第一个方面提出一个观点。

首先「聞手尊敬」从无到有,意味着日语敬语中对听话人的重视程度是一个标志性起点。它是日语对听话人开始重视的一个体现。而现代日语中,综合几个主要的相关语言现象,如人称体系,指示体系,助动词体系化的方向等来看,这个过程的方向都是一致的。随之,我们可以就这个问题提出一个基本的想法。

日语史上对听话人的关注和重视的起点在平安时代中叶,有关指示体系方面的论证请参见拙著2002,有关敬语史中「聞手尊敬」即指向听话人的敬语表现的出现早有定论,主要文献可以参看石坂正藏(1944)、阪仓笃义(1952)、渡边实(1973)以及有关平安时代敬语史的研究。就第二点中,日语史上,对听话人的重视程度何时得以与现代日语基本相去不远[14]这一点,笔者根据拙文(2000)、拙著(2002)以及有关的先行研究,综合几个相关的语言现象的出现,初步把这个时间设定在江户后期文化以及文政年间,日语史通称「化政期」,相当于公元1804—1829年。

其主要根据为,除敬语以外的表示「待遇」的表现中,人称词中的「对称」即第二人称词在近世分化以及复杂化。[15]还有动词活用形中命令形以及其他的命令表现的发展在近世最为突出。表示打招呼和应答的词汇在近世不但数量增加而且功能也越来越多样化,以及感动助词也是如此。[16]

最后,有一点需要说明,以上的观点对我们如何界定现代日语的视点类型这个问题是否有参考价值,笔者尚不敢断言。日语敬语史的发展方向与现代日语视点之间关系的问题有待进一步研究。[17]

3.3 有关日语史发展方向的先行研究的探讨

迄今为止,有关日语史变化的发展方向的论述,除前文提到的渡边实(1973)独树一帜外,大多以龟井孝(1955)为出发点,即把日语史的发展方向概括为从非分析性的表达方式到分析性即近代日语逻辑性倾向(分析化倾向)的变化。阪仓笃义(1993)也不例外。

日本語が、本来持っていた未分化な表現の方法から、次第に分析的な、論理の明晰な表現の方法を獲得する方向へと時代とともに進んできたことは、いずれにせよ、たしかに言えるだろう。それがまず、日本人自身の知的·情的成熟という内発的要因によることはもちろんであるが、たとえば右に見たように漢文訓読文が早くその変化の方向を示しているというような事実からすれば、この進展を援ける外的要因として、漢語·漢文の翻訳ということがあったことが十分に考えられる。漢語は、日本語に対して、文字·音韻·語彙などの面で直接的な影響を与えたことと並んで、あるいは、むしろそれ以上に、こういう表現の面、ないしは発想の面で深い影響を与えたと考えるべきではなかろうか。それは『万葉集』の歌が漢籍の影響のもとに作られたり、あるいはまた、文体としての和漢混淆文が一般化したりするといった事態以前の、もっと深刻な意味においての文化的影響であったと思われるのである」(阪倉篤義1993:272-273页)

对此,早在20世纪60年代,小松寿雄(1963)就已经指出了日语史变化的另一个倾向。

しからば、古代語から近代語への歴史的展開として、なにが数えられるか。これには、新しい文体としての近代日本語の成立と、表現に関する選択の自由の増大とが指摘できる。近代日本語の諸相の成立は、それが音韻現象であれ、文法現象であれ、すべて古代語に近代語が取って代ってゆく。新しい口語的表現の確立過程なのである。選択には、価値判断が伴う。時間の流れに沿って起る個々の現象の変化に対して、社会が積極的な取捨選択を加えるとき、そこに、規範の交替が起る。したがって、国語史は、文体史として把えられる。口語の文体として、近代日本語の諸相が社会的に成立したのは、概括的にいえば、結局のところ、室町時代末期から江戸時代初期へかけてであろう。

表現に関する選択の自由には、いろいろの問題がある。たとえば、敬語表現の発達や漢語の浸透のごときは、すべて、日本語に文体論的な表現のはばを賦与するもととなっている。

さらに、また、視野を変えれば、格助詞の体系の整備や種々の接続助詞の発達は論理の明晰を主とする文体の確立として把えられる。[龟井孝(1955:4-5页)]

小松寿雄(1963)认为,指向听话人的「待遇表现」和敬语的发达归结为与逻辑性并列的,旨在强化交际性的倾向(小松寿雄1963:7页)。有关这个倾向的研究非一日之功可成,需要综合相关的语言事实,逐一甄别,统一整合,自然也非一人之力所能。对笔者而言,能否发现以上提到的几个相关的语言事实之外的相关现象是下一步研究的重要课题。