おわりに
日米開戦の政策決定過程についてはすでに従来の詳細な研究で示されているように曲折に満ちていた。ただ以上の検討の結果、そのお膳立てをした中心人物である田中新一参謀本部第一部長にとっては、それほど複雑なものではなかったことがわかった。田中にとっての課題は、簡略にいえばヨーロッパ戦線におけるドイツの勝利に依拠しつつ日本がアジアで大東亜新秩序をつくりあげることにあった。新秩序の範囲は、「満州」を含む中国·朝鮮·台湾·東南アジア·インドである。1942年1月19日に締結された日独伊軍事協定で示された範囲(東経70度でドイツと日本が守備範囲をわけあう)がそれに対応する。田中は、南進にともなう英米可分論を中国戦線が膠着した1940年末から英米不可分論に転換した。したがって彼は、アメリカが日本の新秩序建設に立ちはだかる最大の壁であると認識するに至った。1941年の前半には、独ソ開戦という新事態に即して南北併進論を唱える中心人物になった。それは近年よく論じられているような御前会議等における南北併進の決定が妥協の産物であったということではない。ヨーロッパ情勢とアメリカの動向の推移に即して北進と南進を適宜判断するために採られた計算ずくの路線であった。
1941年後半の日米戦争開始直前の時期にも、彼の判断の基準は大東亜共栄圏を建設するか否かに置かれていた。それなしには日中戦争を解決出来ないと思い込んでいたところが、田中の思考の枠組みの特徴である。実際には日米戦争を回避するための、いくつかの方法があったのであるが。田中は統帥部で作戦を担当する中心人物であった。その彼が、参謀本部第一部長に就任していた1940年1月から1942年12月までの時期に、純軍事的な枠組みを基盤としつつもそれを超えた政治·外交·軍事·経済にまたがる最高国策決定の実質的担い手として活動していた。
同質の問題はアジア太平洋戦争期の第二期作戦段階の時にも起こった。田中第一部長は緒戦の勝利に乗って重慶作戦準備を始動させた。ドウリットル空襲に敏感に反応し、対して現地軍の反対を押し切って浙贛作戦を実行した。その結果重慶作戦準備は台無しになった。田中はまた、本土空襲の恒常化による国民の離反を恐れてミッドウエー作戦とアリューシャン作戦を後押しした。総力戦遂行のために国民の離反を恐れたためである。その結果、太平洋戦局は大転換した。
ひるがえって考えてみると、田中が陥った陥穽を彼個人のキャラクターに帰して終わりにすることは出来ない。ドイツの戦勝に乗じて日本が大東亜新秩序をつくろうとする田中が抱いていた参謀本部第一部長としての指針は、日本が日中戦争を勃発させて以来歴代の政治指導者が積み上げてきた価値基準に沿ったものであった。田中は、そのような価値基準に沿って忠実に任務を全うしようとした。それが彼の強気な行動の源泉であった。であれば問題の根源は、やはり大東亜共栄圏形成を夢見た日本の政治体制そのものに求めざるを得ない。
[1] 芳井研一,日本新潟大学教授。
[2] 参謀本部編『杉山メモ』上巻(原書房、1967年) 139~154頁。なお日誌類を含め原資料を引用する際に、適宜カタカナをひらがなに改め、句読点を付した。また資料を引用する際に途中を省略する場合は「…」で表記した。
[3] 尾崎秀実「三国同盟成立後の新情勢」(南満州鉄道株式会社東京支社調査室「東京時事資料月報」15号、なお同資料は拙編『東京時事資料月報』不二出版、2011年、として復刻刊行)政-5頁。
[4] 田中新一著· 松下芳男編『田中作戦部長の証言』(芙蓉書房、1978年) 65頁。
[5] 同前、『田中作戦部長の証言』67~68頁。
[6] 海江田政孝「日支条約の調印と列国の態度」(前掲「東京時事資料月報」17号) 列-8頁。
[7] 尾崎秀実「現状維持勢力下の一時的安定と最近の政治情勢一般」(同前、18号) 政-9頁。
[8] 「[1941年]3 - 18 国共問題」 (「田中新一中将業務日誌」、防衛省戦史部所蔵、以下「田中日誌」と略記) 307頁。
[9] 前掲、「田中日誌」1941年3月29日条、328頁。
[10] 「[1941年]4 - 23 独「ソ」開戦の際帝国の採るへき措置」(前掲「田中日誌」) 361頁。
[11] 「畑俊六日記 3月27日条」(『続現代史資料4』みすず書房、1983年) 289頁。
[12] 「畑俊六日記 4月9日条」(同前) 290頁。
[13] 「畑俊六日記 6月28日条」(同前) 303頁。
[14] 「派遣軍関係参謀回想」(防衛省戦史部所蔵)。
[15] 「[1941年]5-26 南方戦に於ける支那事変処理」(前掲「田中日誌」) 417頁。
[16] 「[1941年]6-15 独「ソ」開戦に伴ふ措置の件」(同前) 525頁。
[17] 「[1941年]6-18 独「ソ」開戦と支那事変の帰趨」(同前) 544頁。
[18] 「[1941年]6-26 対「ソ」作戦」(同前) 581頁。
[19] 前掲『杉山メモ』上巻、228頁。『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌』上巻(錦正社、1998年、以下「機密日誌」と略記) 123頁。
[20] 前掲『杉山メモ』上巻、245頁。
[21] 同前、262頁。
[22] 前掲「機密日誌」上巻、128頁。
[23] 「[1941年] 7-31 大臣との会談の件」(前掲「田中日誌」) 768頁。
[24] 尾崎秀実「緊迫せる国際情勢に旋回せる近衛内閣-第三次近衛内閣成立を中心に-」(前掲「東京時事資料月報」24号) 政-5~8頁。なお関特演については、拙稿「関特演の実像」(『環東アジア研究センター年報』6号、2011年) 参照。
[25] 満鉄調査部「欧州大戦ト極東情勢」(世界情勢調査委員会「昭和十六年度第一回報告:第一部総括篇」国立国会図書館所蔵)。宮西義雄編著『満鉄調査部と尾崎秀実』に全文が復刻掲載されているが、同著では資料のページをつけ直している。小稿では原本のページを記載する。177~181頁。
[26] 同前、182~183頁。
[27] 前掲『杉山メモ』上巻、349~350頁。
[28] 前掲『杉山メモ』上巻、378~379頁。
[29] 同前、392~394頁。
[30] 「[1941年]11-27 ハルノート」「11-28 研究」(前掲「田中日誌」) 1109~1111頁。
[31] 波多野澄雄「「対支新政策」の展開」(『太平洋戦争とアジア外交』東京大学出版会、1996年)77~101頁。
[32] 前掲『杉山メモ』上巻、569~570頁。
[33] 前掲『杉山メモ』下巻、52頁。
[34] 『戦史叢書 大本営陸軍部<3>』(朝雲新聞社、1970年、514頁)参照。
[35] 「参謀本部第二課 昭和十七年 上奏関係書類綴 巻一其二」(防衛省戦史部所蔵)所収。
[36] 前掲「機密日誌」上巻、231頁。
[37] 前掲「機密日誌」上巻、232~233頁。
[38] 前掲「機密日誌」上巻、239頁。
[39] 「東条内閣総理大臣機密記録」(『東条内閣総理大臣機密記録』東京大学出版会、1990年)35頁。
[40] 「東条英機大将言行録(廣橋メモ)」(同前)487頁。
[41] 『戦史叢書 本土防空作戦』(朝雲新聞社、1968年)126頁。
[42] 田中新一「大東亜戦争作戦記録 其四」(防衛省戦史部所蔵)109~115頁。なお前掲『戦史叢書本土防空作戦』(126~127頁)には「参謀本部第一部長田中新一メモ」からの引用として本資料が掲載されているが、なぜか重慶作戦が必要であるとする記載は省略されていて載っていない。ここではいくつかの記載漏れ等を含め補充した上で掲載した。
[43] 「畑俊六日記」(『続·現代史資料4』みすず書房、1983年)347頁。
[44] 同前。
[45] 「畑俊六日記」(『続·現代史資料4』みすず書房、348頁。
[46] 「沢田記録」(前掲『昭和十七、八年の支那派遣軍』)112~113頁。
[47] 同前、125頁。
[48] 同前、233頁。
[49] 「沢田記録」(前掲『昭和十七、八年の支那派遣軍』)、250頁。
[50] 『戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>アッツの玉砕』(朝雲新聞社、1978年)89~90頁。
[51] 前掲「機密日誌」上巻、246頁。
[52] 同前、255頁。なお「田中中将回想録 その三」(防衛省戦史部所蔵)の6月13日付には「重慶攻略問題を何時までも遷延することは出来ない。印度よりの対重慶空輸を阻止することができなければ、重慶地域は遠からずして対日空襲の大基地化することになろう。印度を経略することがむつかしいとすれば重慶攻略を行う外なくなる。重慶の武力解決か、それとも支那事変の大乗的解決(極めて寛大なる和平屈服の実現)かの関頭に来ている。三月七日の戦争指導大綱の対重慶施策(諜報路線→屈服工作)の段階は既に過ぎ去ってしまっている」との記載がある。重慶作戦への田中の姿勢は明確であった。
[53] 種村佐孝『大本営機密日誌』(ダイヤモンド社、1952年)128頁。
[54] 同前、131頁。
[55] 前掲「機密日誌」上巻、273頁。
[56] 「参謀本部第二課 昭和十七年 上奏関係書類綴 巻二其一」(防衛省戦史部所蔵)1860頁。
[57] 前掲「機密日誌」上巻、277~278頁。
[58] 「甲谷悦雄大佐回想録」(防衛省戦史部所蔵)48頁
[59] 「眞田穣一郎少将日記 50-2」(防衛省戦史部所蔵)21頁。
[60] 前掲「機密日誌」上巻、268頁。
[61] 同前、270頁。
[62] 井本熊男『大東亜戦争作戦日誌』(芙蓉書房出版、1998年)148頁。
[63] 前掲「機密日誌」上巻、290頁。
[64] 「[付箋]昭和十七年十一月三十日」(「昭和十七年 上奏関係書類綴 巻一其一」防衛省戦史部所蔵)所収。「大陸命五七五号」(『参謀本部」臨参命·臨命総集成』第七巻、エムティ出版、1994年)286頁。
[65] 前掲『杉山メモ』下巻、319、321頁。